心の住人

 僕は黒峰くんがどのように歳をとったのか知りません。だから心の中の彼はずっと少年のまま。僕だけが老いて皺だらけの手で彼の手を握り返す夢を、ここ最近見るようになりました。
 今までずっと遠いところにいたのに。夢に出てきてくれたことなど無いのに。さながら朝潮さんたちが彼を僕の元へ連れてきてくれたようで。

 だから僕は彼の晩年を知ってみたくて、ある日のお昼が少し過ぎた頃の時間帯、お客さまがいない時を見計らって朝潮さんに直接尋ねてみたのでした。
 朝潮さんは小首を傾げて考える素振りを見せた後、何か閃いたような緩んだ表情で僕の袖を引っ張ります。どこへ連れて行かれるのかと思いきや、お店の奥に備え付けの洗面台の前で彼女は足を止めました。
 そして鏡を指さして言うのです。「灰島さんは司令官によく似ていますよ」と。

「いや全然似ていないでしょ」

 後ろから呆れたような満潮さんの声。
 僕もまったくもって同意でした。以前に大潮さんにも同じようなことを言われましたが、それを加味しても僕が黒峰くんと似ているとはどうしても思えなかったのです。
 黒峰くんは僕より背も高かったし、ハンサムでした。眼鏡をかけてもいなければ、筋肉だって僕よりしっかりしていて……。そんなことをつらつらと述べていると、朝潮さんが妙に楽しそうに笑っているのに気がつきました。

「でも灰島さん。それは昔の司令官でしょう?」

 言われてハッとしましたが、それでもやはり納得はできません。黒峰くんがもし生きていたとして、鏡に映るこのしょぼくれた老人のようになるとは思えませんでした。

「教えてくれないかい? きみたちの知っている黒峰くんはどんな様子だったのか」

 その問いに朝潮さんはハキハキと答えてくれました。途中、満潮さんが思い出したように付け加えてくれた内容も加えると、だいたいの人物像が浮かび上がってきました。

 髪は白髪を綺麗に染めた黒。白髪を撫でつけた僕の頭部とは違いますね。
 優しい瞳……はどうなんでしょう。あまり自分の目を見つめた事がないものでして。
 髭は綺麗に剃っていたと。口髭をたくわえた僕とは正反対ではありませんか。
 体躯は背が高く年齢のわりには筋肉質でスマートだったと。ちょっと待ってください。

「僕と重なる要素が見当たらないのですが」

 それを聞いた朝潮さんは、おかしいなと頭を抱えています。他方で満潮さんは、それみたことかと少し自慢げでした。

「そもそも彼はきみたちが慕うほど立派だったのだろう? 僕なんかとても」

 言いかけて、いつのまにか自分の中で外見の話が内面の話にすり替わっていることに気がつきました。僕はどうしても、彼に遠慮してしまう癖があります。
 頭をかいてごまかすと、満潮さんは僕の言い淀んだ理由を察したようでした。

「そういうところは似ているかもね」

 舌をぺろっと覗かせて、珍しく年頃の少女のように笑います。
 意外な一面……いえ、写真の一件から少しずつ心を開いてくれているとは感じていましたが、それでもここまで自然体な満潮さんを見たのは初めてで。僕はとっさに何も言えませんでした。

「こら。満潮、失礼でしょう!」

 様子に気づいて顔を上げた朝潮さんも、満潮さんが僕をからかったことがわかったようです。制止も聞かず、逃げた満潮さんを追いかけます。

 ……はて、満潮さんの言う“そういうところ”とは結局なんだったのでしょう。
 今度は僕が悩む番でした。二人の微笑ましいやり取りを眺めながら頭をひねっていますと、お店のドアが鈴の音とともに開きました。

「いらっしゃいませ」

 思考を一旦わきに追いやり、笑顔を作ってお客さまに挨拶します。その方は僕と同じくらいのお年に見えましたが、深い皺と染みのできた肌が目立つ、いかめしい印象の男性でした。
 そして、どうやら彼の視線が朝潮さんたちを捉えていることに気がついたのです。

「やはり、きみたちなのか?」

 僕が何か言葉を発する前に、そのお客さまは唇を震わせてそう仰いました。
 事情を推察する間もなく、朝潮さんの華やいだ声が彼の正体を教えてくれました。

 彼は清水さんと言って、長い間朝潮さんたちと仕事を共にしたそうです。早い話が自衛隊の方なのでした。

「提督が亡くなって、深海棲艦がいなくなって。時を同じくして行方をくらましたきみたちのことを皆で随分心配したんだよ」

 彼はカウンター席でコーヒーを啜りながら、懐かしそうに朝潮さんと満潮さんを見つめています。そうして僕にもある程度わかるように、いろいろと話してくださいました。


 儂は鎮守府の工廠で働いておったんです。傷ついて帰ってくるこの子たちの艤装をみていました。と言っても、ほとんど妖精さんの補佐のようなものでしたがね。
 それでも、とても忙しい日々で。最後の最後まで深海棲艦との戦いは終わりが見えませんでしたからね。直しても直しても次の艤装がまわってくる。だけど儂らなんて楽なもんだと、艤装とともに傷ついて戦っているのは艦娘たちだと、みんなで奮い立たせあってなんとかやっていました。

 そんな日々でとりわけ嬉しかったのが、朝潮さんや那珂ちゃん……他の多くの艦娘たちが儂らを労ってくれたことです。裏方の儂らに声をかけにちょくちょく現れる彼女たちは、自分たちの方がよっぽど大変だろうに、なんて良い子たちなんだろうと。
 工廠には儂くらい年老いた職員も多かったものですから、みんな本当の孫のように彼女たちに接していました。空気がね、驚くほど明るくなるんですよ。みんな口には出さずとも不安でしたから、あれは本当に救いになった。

 ですから深海棲艦との戦いが終わったと聞いた時、儂が一番ほっとしたのは、これでもうあの子たちも傷つくことがなくなるのだということでした。歓喜に湧く工廠、いえ鎮守府全体が提督と艦娘たちの帰りを待ち侘びていたのです。ですが、誰も帰らなかった。

 儂らに伝えられたのは、提督が亡くなったことと艦娘が“帰港”したという事のみでした。どこの港だとみんな大騒ぎでしたよ。彼女たちが帰る港はいつだってあそこ……儂らの待つ鎮守府でしたから。そうこうしている内に鎮守府に残っていたはずの艦娘たちも一人また一人といなくなっていって、最後に残った叢雲さんが「私も帰らなければ」とおっしゃるまで、誰も“帰る”という言葉の意味に気がつかなかった。

 ……戦いは長すぎました。艦娘たちのいることが当然になっていた。深海棲艦との争いが終わっても、彼女たちは当たり前のようにそこに居るのだと、儂含めてみんなが感じていたんだと思います。だけどよく考えればそんな保証はどこにもなかった。来た時と同じように急に去ってしまっても何もおかしくない。
 誰かが言いました。「今までがずっとおかしかったんだよ」と。そいつに限らず、みんながそれぞれに理由を見つけて、二年経ってようやく受け入れることができてきたのです。

 儂は退職しました。平和な世にこのような老骨はかえって邪魔でしょう。田舎に帰ってのんびり余生を送ろうと、そう思っていた矢先、聞き捨てならない話を聞いたのです。
 それを伝えてくれたのは儂のかつての同僚でした。この街の小さな喫茶店で美人四姉妹がアルバイトをしているらしいと。その子たちの外見が、どうも常人離れしておるのだと。
 そいつは自分で見に行くのは怖いと言っておりました。せっかく心に整理をつけたのに、本当にきみたちであっても、違っても心に波紋が生まれてしまうと。

 儂もさんざん悩みました。もし本人たちだったとして、あの時鎮守府へ戻らなかったのには理由があるはずだと思いました。なら、今になって会いに行くのは迷惑でないかと。
 それでも儂はここに来ました。理由を話してもらわなくていい。ただ伝えたい、と考えたんです。


「ありがとう」

 清水さんは朝潮さんたちを愛おしげに見つめて、そうおっしゃいました。

「きみたちのおかげで今がある。きみたちの思い出が今もある。儂と一緒に働いてくれてありがとう」

 真摯な言葉でした。それこそ清水さんはこの言葉を、数年間言いたくても言えなかったのだと僕にもわかります。
 朝潮さんはくしゃりと顔を歪めると「ごめんなさい」と彼に寄りかかりました。


 清水さんは胸ポケットから青いハンカチを取り出して、丁寧に朝潮さんの涙を拭います。そうして子供をあやすように、彼女が泣き止むまで背中を優しく叩いてあげていました。

 朝潮さんの気持ちが落ち着くのにあまり時間はかかりませんでした。彼女は気丈にも自分の足で立ち上がると、おもむろに空になったコーヒーカップを見つめ、清水さんにおかわりを勧めます。
 清水さんもそれに笑顔で応じて、朝潮さんが慣れた手つきでコーヒーカップを下げました。
 と、急に横腹を軽く小突かれて僕は我にかえりました。満潮さんにジェスチャーだけで謝ると、カウンターの向こうへ戻ります。コーヒーを淹れるのは、いつだって僕の仕事です。

 清水さんは二杯目のコーヒーをゆっくり味わってらっしゃいました。それはどこか、朝潮さんの言葉を待っているようにも思えて。何も言わない彼女に僕が気を揉んでいると、清水さんがじっと僕の方を見ておられることに気がつきました。険しい瞳でした。

 僕は慌てて自己紹介をしました。彼女たちと黒峰くんの約束を共に叶えようとしていることも包み隠さず伝えました。どうしてか彼には真摯でありたかったのです。
 彼は僕が話している間もずっと真剣な表情を崩しませんでした。頼りないと思われているかもしれないと、何故か自信がなくなります。しかし清水さんは朝潮さんと、そして満潮さんに目を移すと、小さく微笑んだように見えました。

「勘定をお願いします」

 彼はそう言ってすくっと立ち上がると、レジの方へと真っ直ぐ歩みを進めました。僕も急いでそちらへ向かうと、満潮さんが無言で伝票をわたしてくれます。どうもいろいろと焦りすぎている自分に顔が熱くなりました。

 その後も予想していたような特別な会話は何もありませんでした。彼は千円札で支払いを済ませると、お釣りとレシートを受け取って、一言だけ「ありがとう」と話されて。最後に朝潮さんたちへ名残惜しそうな視線を送ったきり、振り返らずに行ってしまいました。
 これで良いのかと僕は悩みました。「ご来店ありがとうございました」なんかより、もっと大切な言葉をかけるべきなのでは、と。
 彼はもう二度とここに来ないでしょう。それで良いとはどうしても思えなかったのです。

 しかし、飛び出そうとする僕のシャツの裾に力が加わりました。呼び止めるかのようなそれは、とても弱い力でしたが、僕を強く引き留めるのです。満潮さんが、じっと僕を見ていました。
 僕がどうしてと問う前に、朝潮さんのわざとらしい「あっ」という大声が店内に響きました。驚いた僕が彼女へ振り向くと、朝潮さんは青いハンカチを手にしていました。

「お客さまの忘れ物です。わたし、ちょっと届けてきますね」

 そう言って彼女は返事も待たずに駆けていきます。ドアが鈴の音を鳴らして閉まると、僕は自分がほっとしていることに気がつきました。

「もう。あまり朝潮に気を遣わせないでよね」

 と、満潮さんのため息。彼女は手近な椅子を引き寄せて腰かけました。
 僕は突っ立ったまま、その可能性に思い至らなかった自分を引っ叩きたくなりました。今日一日で、何度自己嫌悪しているのでしょう。ほとほと情けなく思います。

「ごめんよ。事情もよく知らずに出しゃばってしまった」
「……謝ることじゃないけど」

 どうしてか歯切れ悪く満潮さんは呟きました。それっきり、店内は古時計の針が進む音だけが虚しそうに刻まれていきます。僕は時計を見やって、もうすぐ午後の三時であることを確かめました。そろそろ、次のお客さまたちが来てもおかしくない時間帯です。

「さてまた忙しくなりますよ」

 自分で不自然に思うくらい、大きな独り言。だけれど、満潮さんの小さく笑う声が救いの合いの手になりました。

 食器を洗う僕にモップ片手の満潮さんが声をかけます。

「実はわたし、あの人のことよく覚えていなかったの。朝潮はすごいわ」

 なんでもない世間話のようにそう言うのです。
 だから僕も、努めて手を休ませずに答えました。

「それを気にしているのかい?」
「少しは。けど大丈夫よ」

 あまり大丈夫そうじゃない声に少し可笑しくなりました。
 それで、怒られそうで言わなかったことを話したくなったのです。

「実はね。きみたちがやってくるまで、僕は黒峰くんのことをほとんど忘れていたんだよ」

 カタンとモップが床に倒れる音がして。見れば満潮さんが口をあんぐり開けて固まっていました。

「他の子には内緒だよ」

 不思議と罪悪感はありませんでした。満潮さんが同じようなことを気にしていたからかもしれません。それが自然なことだと心から思えました。

「呆れた。忘れていた程度の人との約束を今さら守るの?」

 モップを拾い直した満潮さんから棘のある声。当然です。黒峰くんももしかしたら怒っているかもしれませんね。でも、ですよ。

「きっと出会った人をすべて住まわせておくには、人の心は狭すぎるんです。けれど、黒峰くんの住民票はかろうじて残っていたんだね。きみたちが彼を連れ戻してくれたんだ。おかげで大切なことをたくさん思い出せました」
「ご立派な言い訳ね。そういうところ、やっぱりそっくりよ」

 満潮さんはそんな曖昧な返事だけを残して、ぱたぱたとモップがけに励み始めます。
 誰のことかは聞くまでもない気がしました。

 その時ふと、清水さんも朝潮さんたちのことを過去に思う時が来るのだろうかという考えが頭に浮かびました。そして次に、僕は満潮さんたちのことを忘れられるのだろうか、とも。

「いまこの瞬間に感謝して過ごさないとですね」

 答えの代わりに呟いたその言葉は、誰に拾われるでもなく、心の一室へとしまわれていきました。

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2023年5月25日