嵐の散歩道

 強い雨が窓に叩きつけるのを、僕は先ほどから頭をかいて見つめています。
 急速に発達した台風がこの海辺の街に迫っていることはテレビで知っていました。それでも、心のどこかで楽観視していたのが悪かったのでしょう。当然お店にお客さんなど来るわけがなく、むしろ来られるはずもなく、こんなことなら昨日のうちから休業を決めていればよかったと反省するばかりです。僕は振り返って、机に突っ伏している二人の少女に頭を下げました。

「ごめんなさい。こうなるとわかっていたはずなのに、きみ達にわざわざ来てもらって」
「今日はもうお休みってことぉ?」

 荒潮さんが頭を重そうに持ち上げてそう尋ねるのに、僕はもう一度謝罪の言葉を口にします。満潮さんはそれを見てか、たっぷり息を吐き出しました。

「もう、謝っても仕方ないじゃない。それに昨日は晴れていたもの。なんとなく大丈夫かなって、わたしも思っていたし」
「そうねえ。こういう日には、駅前のおしゃれなカフェだってお手上げじゃないかしら」

 二人は口々にそう言ってくれます。しかし、やはりなんというか、責任者として決断を誤ったことは僕の小さな自尊心を傷つけたと言いますか。今まで一人でやってきた時はこれでも通用したのですが、人を雇うという慣れない行為の綻びがついに表面化してしまったことが、申し訳なくも悔しくもありました。
 せめてもの償いで、僕は彼女たちを送ろうと率先して玄関の扉の前に立ちます。風で押し返されるのをさらに押し返して、やっと外の様子が見えたと同時に、大粒の雨が眼鏡に直撃して。あっという間に何も見えなくなって、僕は慌てて扉を閉めました。

「何やってるの?」

 気づけば二人はすぐ後ろに立っていました。本当にその通りだと思います。眼鏡なしでは表情まではわからないけれど、満潮さんの声色は完全に呆れているそれでした。
 僕は慌てて眼鏡をエプロンで拭こうとしましたが、小豆色のエプロン自体が真っ黒に濡れていて、拭けども拭けども水が鏡面を滑るばかり。そうこうしているうちに二人が乾いたタオルを持ってきてくれて、大人の威厳なんてものも綺麗に拭きとられてしまったようです。

「ありがとう。でも、いま外に出るのはかえって危ないかもしれない。コーヒーを淹れるから、二人とも少しゆっくりしていかないかい」

「平気よ。それに、いつやむかわからないし、いつ帰ったってわたし達には同じだし」
「そうねえ。素敵な申し出だけど、満潮ちゃんがそういうなら」

 そう言ってすたすたとすれ違っていく二人を僕は慌てて呼び止めます。せめて「家まで送る」と説明しますが、満潮さんはにべもありません。

「わたし達より、あなたの方が危険よ。それ」

 玄関を開けて外の様子を見ながら彼女は言います。荒潮さんも「満潮ちゃんは優しいのね」と茶化しながらも、概ね満潮さんと同じ意見の様子。しまいには

「マスターはお爺ちゃんだから。ね?」

 なんて毒気のない笑顔で言われたことには、何も言い返すことができませんでした。
 いえ、世間一般で言う「老人」の年齢にとうに足を踏み入れていることは自覚していましたが、それこそ孫ほど歳の離れた見た目の荒潮さんにそう呼ばれると、さすがに頭がくらくらしたのです。
 結局、少女二人を台風の中送り出し、一人服や髪から滴り落ちる雫に視線を落としているのは、大変みじめなものでした。何度もやはり駄目だと外に飛び出そうとして、いや落ち着けと足踏みします。
 二人に何かあったら……と、もし僕の身に何かあったらこの喫茶店は、黒峰くんとの約束は……とが、責任感同士で喧嘩し出してどうにもならないのです。こういう時に、ちゃんと歳を重ねた者ならば良い知恵が働くのかもしれませんが、あいにく僕はそのように立派ではなく、ただのお爺ちゃん、ただの僕でした。
 結局しばらくの葛藤の後に、迷い悩むストレスから逃げるように傘を掴んで飛び出しました。単純に、こっちが「やりたいこと」だっただけかもしれません。

 外に出てすぐに傘が飛ばされそうになりました。持ち手の上の方に手をかけ、低く構えることで眼鏡も濡れず、視界を確保できました。ただこの姿勢だと足元より少し上くらいまでしか見えず、かといって傘を持ち上げればあっという間に先ほどの二の舞になるのは想像に難くありません。
 にっちもさっちもいかず、頭の中で停滞しているかどうかの差なだけで、店の中にいた時と何も変わっていないなと肩を落とした時、ふいに背後から声を掛けられました。

「やっぱり、追いかけてきてくれると思ったわあ」

 お店の軒下、風で倒れてしまった植木鉢のちょうど隣に、荒潮さんは立っていました。

「賭けはわたしの勝ちね」
「賭け?」

 オウム返しの言の葉は、強く吹き荒れる風の音にかき消されて、だけどなんとか荒潮さんには届いたようです。彼女は僕の傘に潜り込んで言いました。

「満潮ちゃんとね。もちろんわたしがこっちを選べば、満潮ちゃんはあっちを選ぶに決まってるんだから。少しずるだったかも」

 でも今度お買い物に付き合ってもらおうっと。荒潮さんはそう楽しげに笑っています。
 僕はといえば、行動を見透かされているやら、いつの間にか賭けの対象にされているやらで、すっかり脱力してしまいました。

「敵わないなあ。それで僕は大人しくお店で台風が過ぎるのを待てばいいのかい? この台風の中一人で帰るきみを見送って?」

 荒潮さんが雨に濡れないように傘の位置を変えるのは唯一の意地です。彼女の答えは想像できたけれど、それでもやはり情けなさが先に立ちます。あるいは、この期に及んで大人らしく振る舞おうとする、その態度がもう格好悪いのかもしれませんが。
 そんな取り止めのないことを考えていたら、すぐ近くで荒潮さんが悪戯っぽい笑みをたたえていることに気がつきました。

「それも良いけれどぉ、もっと良いことしましょう?」

 彼女が僕の腕に抱きつきますが、傘を支えるので精一杯な僕は振りほどけません。こらこら、と咎めてもどこ吹く風。僕を強引に雨風の中へ連れ出して、楽しそうに笑うのです。

「お散歩しましょ」

 言葉を失うとはこういう状況のことでしょう。
 僕のずれ落ちた眼鏡をかけ直して、目の前でウインクしてみせる彼女が現実のものか、本気で疑うほどです。そのまま唖然とする僕を、荒潮さんは傘の中から文字通り引っこ抜きました。

「おいおい」

 やっと帰ってきた言葉もそんなもので、荒潮さんにも「マスター、さっきから『こらこら』とか『おいおい』とかばかり言ってる」と笑われます。
 それで少し深呼吸して、現状を受け入れる努力をしました。そしてそれが叶うかどうかというところで、またもおかしな点に気がつきました。

「濡れていない……」

 僕は自分の体が雨を受けていないことをもちろん不思議に思いました。
 つい先ほどまでさしていた傘が、風にあおられ何処へやら流されていくのが見えます。激しく降り注ぐ矢のような雨も視界にはっきり見えています。
 これは、と一つの確信が生まれました。

「わかった。これは夢だね」

 そう考えれば全て腑に落ちます。おそらく僕は、台風が過ぎ去るのをお店で待つうちに眠ってしまったのでしょう。目の前でクスクスと笑う荒潮さんも、精巧な僕のイメージに違いありません。

「そうね。そうかもしれないわ」

 僕に背を向けて歩き出す彼女を追いました。台風の中でお散歩なんて、長く生きてきても経験したことはありませんし、とても魅力的に思えたのです。

 建物の立ち並ぶ大通りを、人気のない商店街を、ぬかるんだ地面の公園を、僕らは歩きました。
 荒潮さんは常に僕の前を歩いて、ずっと機嫌良くお話ししています。僕はそれに相槌を打ったり、時に周りの風に負けないように大声で応えたりもしました。
 しかし、この街をぐるっとまわって、どうやらお店へ帰る道を行き始めた頃に、それまでとは違うトーンで荒潮さんが呟きました。

「戦いがあった頃はよくこんな嵐の中、大っきなドラム缶を引っ張って海を渡ったの」

 激しい風雨の中、こぼれるような彼女の言葉がはっきりと聞こえます。もうそういうものだと受け入れていた僕は、彼女の話に耳を傾けました。

「最悪の気分だったり、逆にシャワーを浴びたみたいに爽やかな気持ちになったこともあるの。わたしは気分屋だし、飽きっぽいのよ。でも同じくらい変わらない日常が愛おしいとも思う」
「きみは、素直な子なんだね」

 僕の率直な感想に、荒潮さんの肩がぴくっと震えたように見えました。それでも彼女は振り返らず、ただ歩み続けます。

「そんな言い方をする人は珍しいわ。大抵、みんなはわたしを天邪鬼って評するの」
「その言葉を投げかけた人に悪意があったかは僕にわからないけれど、天邪鬼はいたずらが得意な悪鬼だよ。きみはそうは見えないな」
「そうかしら? そもそもわたしは『子』って言われるような存在かもわからないのに?」

 どういう意味だい? と問いかけると、彼女は一瞬足を止めて考え込んでいる素振りを見せました。

「わたしはヒトではないのよ。それに、ヒトと見られることが嬉しいとも悲しいとも言えないの。おまけにもうフネでもなくて、自分が何者かわからないことも、何度かあったわねえ」
「答えは見つかったのかい?」

 荒潮さんはまた歩き始めて、そこからずっと静かでした。それでも、その時間はどうしてか僕にとって嫌な沈黙ではありませんでした。
 辺りは依然として風が唸り、雨が叩きつけるように降っていましたから、耳寂しくなんてありません。細い木の枝や壊れた傘が飛んでいたり、会話がなくともそれなりにスリリングで飽きませんでした。荒潮さんの連れ出してくれたこの散歩を僕は楽しめています。
 なにより、夢の中の住人に多くを求めるのは酷でしょう。この世界は、僕が勝手に楽しんで、勝手に帰るべき場所のように思えました。
 そして帰るべき我が家である喫茶店『桔梗の庭』が見えてきた頃、しばらくぶりに荒潮さんは口を開いたのです。

「自分が何なのかわからない事は、よく不安を連れてきたわ。同じ悩みを持つ仲間はきっと居たと思うけど、みんなそれぞれに答えを得たり、受け入れてるのだと思ったら、余計に怖くて聞けなかったのよ。誰もそんな話はしなかったもの」

 自分を抑えつけたようなその口調は、彼女がまだ答えに至っていないように僕には聞こえました。けれども僕に答えを提示してあげることはできないし、その資格がないということもわかっていました。
 だけど、その上で、僕は例え夢の中でも荒潮さんの力になってあげたいとも思いました。

「きみが今からでも答えを求めているなら、一緒に探しにいこう。夢の端でも僕がお供するから」

 少しクサいかなと思いましたが、夢の中くらい格好つけても良いでしょう。現実では情けないところを見られましたから。
 僕の言葉に荒潮さんは振り向いてくれましたが、その視線は遥か上空に向けられているようでした。突然雨粒がぽつりぽつりと降ってきて、彼女の下瞼の辺りを濡らします。
 涙みたいだな、と思いました。

「あら、いけない」

 荒潮さんはその雫をそっと拭き取ると、軽く謝る仕草を見せました。
 その時になって僕は自分の肩が濡れていることに気がついたのです。今まで外界と完全に遮断されていた世界は混ざり合って、霧雨のような冷たく静かな風が頬を撫でていきます。

「マスターがあんまりにも司令官みたいなことを言うから、つい油断しちゃったじゃない。もう、艦娘としての力まで弱まって、いよいよダメね。結局わたしは何者にもなれなかったわ」

 言葉の意味を掴みかねている僕を尻目に、彼女は誰に言うでもなく、言葉を紡ぎ続けます。

「本当に怖かった時、司令官に聞いたのよ。わたしは何? 何処に居るの? って。そうしたら彼、あなたと同じことを言ったわ。酷いと思わない? わたしは彼が言うならヒトにもフネにもなるつもりだったのに。……愛していたのに」

「荒潮さん、それは違う。違うよ」

 彼女の様子のおかしさに、僕は反射的に否定の言葉を投げかけていました。

「自分が何者かは自分自身で見つけるものなんだ。荒潮さんの悩みとは重さが違うかもしれないけれど、誰だって、僕や黒峰くんだって、一度は自己という存在と向き合って、悩むものなんだよ」

「そんなのっておかしいわ。だってそれじゃあ、司令官は乗り越えていたんでしょう? 教えてくれたっていいじゃない」

「荒潮さん、聞いておくれ。みんなそれぞれに答えは違うし、必ず見つかるとも限らないんだ。見つかって安心してもまた悩んだり、新しい自分に出会ったり、見つからないまま落としどころを決めたり、そうして一生考え続ける命題なんだよ。だから黒峰くんは一緒に探そうと言ったんじゃないかな」

 荒潮さんは拗ねた子供のような表情で、それでも僕の話に耳を傾けてくれていました。
 僕は一気に喋ったことで少し息が乱れていることを感じながら、彼女に想いを伝えたい一心で歩み寄ります。

「それに、きみが何者にもなれなかったなんてことはないよ。この素敵な散歩の中で、きみはたくさん聞かせてくれた。好きなこと、自分の感情、周りにどう思われているか。きっとそういう些細かもしれない感情の、ひとつひとつに自分が隠れているんだ。はっきり答えが出せなくても、ずっと不安でも、何者にもなれなかったなんて、そんなわけないんだよ」

「おかしいわ」

 荒潮さんはふるふると首を振って、それから少し笑って言いました。

「わたしの方がずっと長く司令官と居たはずなのに、マスターは彼のこと誰よりも理解してるみたい。彼が言いそうなことをつらつらと並び立てて。ちょっと妬けるわね」

 そうして僕に向けて、小さく手招きしました。僕が身を屈めて彼女に耳を向けると、頬に温かく柔らかい感触を感じました。

「えっ」
「夢から覚めたら、いつもの格好わるいお爺ちゃんでいてね」

 耳元でそう彼女がささやく声を聞きながら、僕の意識はゆっくりと微睡みに沈んでいきました。

 気がつくと、僕は喫茶店の中にいました。椅子に身を預けて眠っていたようで、立ち上がると体の節々が痛みます。
 時刻は午後六時をまわったところ。外の様子を確認すると、雨もあがってずいぶん風も落ち着いたようです。念のためテレビで確認すると、キャスターの人が、台風はこの地域を早足で駆け抜けていったと伝えていました。

 僕は大きく伸びをすると帰り支度を始めました。
 なんだか不思議な夢の中で偉そうに熱弁したことを思い出し、一人恥入ります。
 そうして喫茶店から出ようとして、傘箱に自分の愛用の傘がないことに気がついて、僕は大きく首を傾げたのでした。

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2023年7月4日