友の多い人生ではありませんでした。若い頃は読書ばかりしていて、僕自身、周囲とどう関わっていいのかわからなかったのが本当のところです。
そんな僕の数少ない友人の、とりわけ親友と呼べる男が一人だけいました。
黒峰海斗。運動神経ばつぐんで、勉強もほどほどにでき、なにより笑顔が太陽のようにまぶしい。そんな学校の人気者が、なぜ僕の隣をことさらに気に入っていたのか、当時はよくわかりませんでした。ただ、その理由が哀れみではないことはたしかに肌で感じていたのです。
彼は僕と似ている。
そう思うようになったのは、ついぞそれぞれの進路が決まったときのことでした。
「自衛隊に入ろうと思うんだ」
彼が僕にそう打ち明けたときのはにかんだ笑みを、今は昨日のことのように思い出せます。
結局のところ僕も彼も、誰かのために生きたかったのです。からっぽの自分を必要としてくれる誰かを求めて、僕は空想へ逃げ、彼は仮初めの自分を演じることで孤独と戦っていた。そう気づかされました。
そうして、厚い雲からところどころ光が差し込んでなんとも幻想的な空の下、僕より先に一歩踏み出した彼のことがどうしようもなくうらやましかった。
だから僕は半分本音、半分対抗心で将来の夢を語ったのでした。そう、喫茶店を経営して、みんなが安らげる空間を作り上げること。みんなに慕ってもらえる自分になること。そうした想いを赤裸々に話しました。
彼は満足げにうなずくと、ごつごつした岩のような手を差し出してきました。そのとき初めて僕たちは握手というものを交わしたのです。
彼は僕の手を握りながら言いました。
「いつか夢を叶えたら、きっと俺が最初の客になってやる」
それを聞いた僕は「いいや。きみが来るのは繁盛した後の僕の店だ。お客さんの笑顔にあふれるその場所で、きっときみは悔しがるだろう。僕に先を越されたってね」と憎まれ口を返したはずです。
それが彼と直接会った最後の記憶です。しばらく続いた文通も、やがて忙しさにかまけて途絶え途絶えになりました。記憶は思い出となり、誓いは過去のものとなり果てて、僕は自分の夢さえ忘れていたのです。
芋づる式にすべてを思い出したのは、皮肉にも深海棲艦が現れて日常という日常がめちゃくちゃに壊されてしまったときのことです。
弱った人々の力になりたい。一時でも現実を忘れてくつろげる空間を作り出したい。その想いで僕はずっと勤めていた会社を辞め、この海辺の街へと身一つでやってきたのでした。
その頃の苦労話は……もうしましたね。面白いお話でもありませんし、ここでは重要ではありません。僕がここに記したいのは、それから十年ほど経った、深海棲艦がいなくなって久しい頃の、ある出会いについてです。
初夏の蒸し暑い日の、お昼を少し過ぎた時間でした。クーラーでほどほどに冷えた店内に、扉についた鈴の音が夏のにおいを運んできました。
「いらっしゃいませ」
僕はそう言って、手にしていた新聞をたたんだはずです。ちょうど戦後特集をしていて、専門家の偉い人が深海棲艦は本当にいたのでしょうかと疑問を投げかけている、そんな記事を読んでいました。
お店の入口に向かって笑顔を作ると、そこには四人の少女が佇んでいました。みんなお人形さんみたいに整った顔立ちをしていて、僕は年甲斐もなく彼女たちに目を奪われてしまったほどです。
やがてその中の黒く長い髪がつややかな少女が、まっすぐに僕の前のカウンター席へ歩を進めました。そして固まっている僕へ向かってこう言ったのです。「黒峰司令官の約束を彼の代わりに果たしに来ました」と。
初めは意味を掴みかねました。だってそうでしょう。どう見積もっても中学生程度にしか見えない女の子が、「司令官」なんて言葉を使って、それは見事な敬礼をしてみせたのです。ええ、彼女のそれはテレビでも見ないような、一種の美しささえ感じる所作でした。
遊びやからかっているようには思えませんでした。僕はただ混乱して、彼女の言葉を小さく反芻しました。そして黒峰という名前に懐かしい響きをみとめたのです。
「黒峰。黒峰海斗のことかい? きみたちは彼の知り合いなのかい?」
僕が尋ねると、黒髪の少女は逆に困惑したように見えました。
「なにも聞いていらっしゃらないのですか」
彼女はただそう呟いて、しばらく考え込んでいる様子でした。
僕の方もどうしたものかと、いろいろ聞きたいのを我慢して彼女の言葉を待ちました。
数秒の膠着状態の後、彼女は背後の三人へ向かって手招きすると、一人ひとり名乗るように促しました。
「わたし、大潮って言います」
空のように明るい髪色をした少女が、率先して元気よく挨拶してくれました。
「満潮よ」
「荒潮ってー、いいますー」
眉間にしわを寄せた茶髪の少女と、やや間延びした声の暗い栗色の髪の少女が立て続けに名乗ります。最後に黒髪の少女が、やはり生真面目な様子で「妹たちです。わたしは、朝潮」と僕の目を見て言いました。
変わった名の姉妹だなと、そのときの僕はのんきにそんなことを思ったのを覚えています。というより、なんだか現実離れしたあらゆる事象に頭がついてこなかったというのが正しいでしょう。
そんな状況の僕に、彼女はたたみかけるように衝撃的な話をしました。
「黒峰司令官の遺言です。あなたの喫茶店を探して訪ねるようにと」
そのときの僕はどんな表情を浮かべていたのでしょうね。急に息苦しくなって、心の奥に釘を打ち込まれたような痛みが走りました。視界が狭くなって焦点も定まらない。僕はすっかり狼狽していました。
不思議ですよね。ずっと会っていなかった友人でも、その存在を一度意識してしまえば、あの頃の他愛のない日常がふつふつと胸によみがえってきていたのです。
しかし、彼女の知らせはその思い出すべてを黒く塗りつぶしてしまった。もうそのときには彼の顔さえ思い出せなくなりました。
「大丈夫ですか?」
朝潮と名乗った少女は、今にも膝から崩れ落ちそうな僕に肩を貸してくれました。
彼女の小さな肩に身を預けて、僕は数回深呼吸をしました。大人の僕に寄りかかられても彼女はびくともしません。それで、少し落ち着きを取り戻した頭で漠然と思ったのです。彼女たちは訓練を受けた自衛隊員に間違いないと。
「無理もありません。司令官はわたしたちにとっても大切な人でした」
朝潮さんは心配そうにこちらを見つめていました。
僕は礼を言って彼女から離れました。弱っていたせいでしょうか。このとき僕は知らない少女たちに一気に親しみがわいていました。
「朝潮さんと言ったね。黒峰くんは、その、自衛隊員になれたのだね」
彼女は黙って首肯するのみでした。
僕の胸の奥に、あの日の思い出が再び色を取り戻しました。喪失感を伴ったぬくもりが、じんわりと現実を受け止める緩衝材になりました。
「そうか。彼は夢を叶えたんだな」
僕がしみじみとそう言ったのを見てか、朝潮さんもまた寂しそうに笑いました。
その様子があまりにいじらしいものだから、僕は少しばかり泣きました。黒峰くんは部下に慕われ、誰かのために生きて、そして自らの夢と信念に殉じたのだろうと想像してしまったのです。
最後に交わした握手を思い出し、僕は自分の手のひらを見ました。血管の浮き出た老人の手がそこにあって、時の流れに思いをはせました。そうして見えない何かを掴み取るように拳を握って、僕は言ったのです。
「伝えてくれてありがとう。彼との約束に僕も報いないとね」
営業用の笑みを浮かべて、僕は彼女たちを奥のテーブル席へとエスコートしました。
「なんでも好きなものをご注文ください。お代はけっこうです」
ところが席に着いた朝潮さんたちはしきりに辺りを見回していて、メニューを見る素振りもありません。僕は差し出がましいとも思いましたが、いくつか自信のあるメニュー……例えばコーヒーとショートケーキのセットなんかを提案したのです。
ですが朝潮さんは困ったように微笑んで、ただ一言「いただけません」と僕の方を見て言いました。
当然僕は理由を尋ねたのですが、彼女は首を横に振るばかり。お金のことなら本当に心配しなくていいと、そう伝えても反応は芳しくありませんでした。
いよいよ僕はどうしたものかと頭を抱えました。黒峰くんの知り合いであるという彼女たちからお金をいただくことはどうしてもできませんでした。しかしそれが原因で彼女たちを困らせてしまっているなら、と僕が早合点したその時です。
「約束が違うわ。このお店、繁盛しているどころか他に誰もいないじゃない」
四人の中の誰かがそう言いました。
僕は痛いところを急につかれて、驚いたりへこんだりで。その約束という言葉にすぐには頭がまわりませんでした。
「こら、満潮。失礼でしょう」
朝潮さんがそうたしなめると、どうやら先ほどの発言者である満潮さんは、ふいと僕から目を背けてしまいました。
その仕草もあって僕はとても聞きづらかったのですが、言われた以上聞かないわけにもいくまいと、約束とはなんのことかと問いました。
そのときの朝潮さんの悲しげな表情は一生忘れられないでしょう。彼女は他の姉妹たちに自分が説明すると前置きしたうえで、僕の目を見て話し始めました。
「忘れてしまっていてもご無理のないことかもしれません。とおいとおい昔の約束です。司令官でさえ、いなくなる直前に思い出したのだと、そうおっしゃっていましたから」
それから彼女は自らの手を僕に差し出しました。
「店主さん、わたしの手を握っていただけますか」
僕はその瞬間思い出したのです。黒峰くんのごつごつとした、だけど優しい手を。そしてあの日に交わした約束を。
「ああ、そういうことか」
照れ隠しに笑ってみて、それから朝潮さんの手をそっと握りました。
「たしかに約束したんだ。ちょうどこんな風に握手を交わした後だった。僕はお客さんの笑顔であふれる喫茶店に彼を招待すると宣言したんだ。ああ、そうだったなあ。若かったからね、半分売り言葉に買い言葉ではあったけれど、約束は約束だ」
朝潮さんの手は見た目どおり柔らかくて、だけど伝わってくる優しさは黒峰くんのそれとなんだか似ている気がして。僕はまた少し泣きそうになりながら、だけどまっすぐ背すじを伸ばして言いました。
「黒峰くんの代わりに来た君たちを、こんなに閑散としたお店でもてなすことはできないし、それでは約束を果たしたことにはならない。そういうことだね」
朝潮さんを含め四人の少女たちは頷いてくれました。これで彼女たちが困っていた原因もわかって一件落着……となればよかったのですが。
「しかし困ったな。僕が言うのもなんだが、このお店は普段からあまりお客さんが多くなくてね。ああ、こんなことなら駅前にポスターのひとつもお願いしておけばよかった」
「大丈夫です!」
最初に大潮と名乗ったあの子が、元気いっぱいに僕の後悔を吹き飛ばしました。そうしてこんなことを言い出したのです。
「わたしたちが手伝います。きっとみんなの笑顔であふれた素敵なお店になりますよ」
「あらー、良い考えね」
「そうですね。ただ待っているよりはやりがいがあるかもしれません」
朝潮さんと荒潮さんもどうやら乗り気なようです。満潮さんだけがフンと鼻を鳴らしてそっぽを向きました。
僕はどちらかと言えば満潮さんの気持ちに同情します。お店を繁盛させるなんて、何年かかるかわかったものじゃないのに、それまでずっとここで働くなんて博打もいいところです。
それに僕側の事情もあります。お給料とか。そもそも彼女たちは何歳なのでしょう。親御さんだって居るでしょうに、こんなに簡単に決めてよいものでしょうか。
そんなことをつらつらと述べると、朝潮さんが「そういえば言っていませんでしたね」と決まりの悪い様子で立ち上がりました。
「わたしたち、艦娘なんです。人ではありませんから、年齢もありませんし、親もいません」
それはそれは見事な敬礼とともにそう教えてくれました。
艦娘。それは深海棲艦から人類を守ってくれた人ならざる存在。詳しいことは国が秘匿していて一般には知られていませんでしたし、僕もその例にもれず言葉として知っているのみでした。
だけど彼女たちがその艦娘だとすれば、様々なことに合点がいきます。黒峰くんの部下だというのも、言葉のあやではなく実際にそうだったのでしょう。
しかしこの国を、市民を身を挺して守ってくれていたのが、こんな年端もいかない見た目の少女たちとは。国が秘密にしたがる理由の一端がわかる気がします。
脱線してそんなことを考えていたら、不安げな表情の朝潮さんと目が合いました。
「あの、どうでしょうか。こういったお仕事は経験がありませんし、むしろご迷惑ならそう言っていただけると……」
僕としては今までアルバイトさんを雇ったことすらなく、ずっと一人でやってきましたから、ここは断るのが筋だったのかもしれません。だけどこのとき僕の胸にあったのは「彼女たちと働きたい。ともに黒峰くんとの約束を果たしたい」というただの情熱でした。
あるいは心の内では独りに飽き飽きしていたのかもしれませんし、黒峰くんという友の存在を強く意識して、今まで平気だったものがそうでなくなったのかもしれません。
どちらにせよ、僕は彼女たちの申し出を受けることに決めました。
「よかった……」
胸をなでおろす朝潮さんは、どうやら本当に不安だったようで。彼女がそこまで一緒に働きたいと思ってくれていることが、僕はなによりもうれしく感じました。
「申し遅れたね。僕の名前は灰島悠。店長でもマスターでも好きに呼んでくれてかまわないよ。これからよろしくお願いします」
「はい。この朝潮と妹たちにお任せください。必ず黒峰司令官との約束を果たしましょう」
一転して彼女は胸を張って言いました。その様子がなんだかとても頼もしく見えて、僕は知らず知らずのうちに彼女に黒峰くんの面影を見ていました。
あの日交わした小さな約束。それがこんな出会いを運んできてくれたのだと思えば、彼を失った悲しみも少しは癒えるのでしょうか。いやきっとそれはまた別の問題だと思いました。
僕は天に向かって祈ります。黒峰くん、きみの大切な部下をしばらく借りるよ、と。
すぐに約束を果たせなくて申し訳ないけれど、きみも自分で叶えにこなかったんだからお相子だよね、なんて。そんな風に、あの頃に戻った心持ちで憎まれ口までたたいてみました。
そんな僕に、まるで心の中を見透かしたかのように朝潮さんは言いました。
「わたしたちは艦娘です。過去と今を渡っていく船。戦って運命を切り開く強い船」
だから、安心してください。
朝潮さんがそう締めくくると、ほかの姉妹の子たちも同調して大きく頷きました。
ここから艦娘の少女たちとともに過ごす、とても素敵で少し不思議な日々が始まったのです。