序文

 雄大な海を一望できる高台の、比較的新しい建物が建ち並ぶその一画に、まるでそこだけ過去の時間を切り取って張り付けたかのように古いお店があります。

 喫茶店『桔梗の庭』……僕の経営するカフェがそれです。年季の入った煉瓦造りのお店は、一見すると威圧感のある入りづらい雰囲気をまとっているかもしれません。一度店内に足を踏み入れ、僕の淹れるコーヒーや紅茶を一口飲んでくだされば、きっとお気に召していただける自負はあるのですが。そんなだからか、今だってほとんど常連さんだけでもっているような状況です。

 それでも、定年間際に前の会社を辞め、ここを買い取って喫茶店を始めた当時に比べれば、ずいぶん軌道に乗ったのです。

 もう二十年も前になるでしょうか。深海棲艦という海の脅威が暴れていたせいで、この海辺の街は今では考えられないほど閑散としていました。加えて経営のノウハウもない僕は四方八方から借金もして、なんとかかんとか喫茶店としての体裁を整えるので必死でした。

 しかしながら喫茶店を営むことは僕の長年の夢でしたから、なんとか成功させようと日々経営学を勉強して、おいしい紅茶とコーヒーの淹れ方を研究して……。そうして慣れない接客も笑顔でこなせるようになった頃、深海棲艦が忽然と姿を消したのです。

 世間は最初は騒がしく、次第に落ち着いていきました。街には多くの人々が戻り、海外との流通も回復し、経営がぐんと楽になったのを今でもよく覚えています。

 まるで深海棲艦など初めからいなかったかのように、人々はたくましく、そしてしたたかに元の暮らしを取り戻していきました。あの当時の時間の流れる速さは、まさにテープレコーダーを早送りしたかのごとくでしたよ。

 そうして人々の、そして僕の記憶から深海棲艦という存在が消えかかっていたある日のことです。僕は今でも忘れられない不思議な夏を経験することになりました。

 すべてはある四人の少女との出会いから始まりました。彼女たちの名は朝潮、大潮、満潮、荒潮。自らを『艦娘』と名乗った彼女たちとの日々は、とても短いものだったにも関わらず、僕の半生のように心に焼き付いて離れません。それでいてすべて夢だったようにも思えるのです。

 確かなのは、僕の記憶に四人の少女が生き続けているということだけ。そんなひと夏の神秘的な日々をここに綴ろうと思います。そう、例えばこんな話。

 当店自慢のコーヒーを片手に、どうかこの老人の思い出話にお付き合いください。

 

 

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2022年1月8日