まどろみの中でまたぼくがぼくを見ていた。
「ねえ、いつになったら思い出すの?」
ぼくがぼくに問う。ぼくはなんだかとても悲しくて答える気にもならない。
「そう。そうやって誤魔化すんだ。いつか魔がぼくを食らうまで」
誤魔化す? うん。そうだね。偽りだらけの人生さ。
「ならきみが食われるといい。ぼくはぼくだ。やりたいようにやるだけさ」
やりたいことがあるなら好きにすればいい。ぼくは半ばやけっぱちだった。
生まれてきて寂しさを感じることはあっても、やりがいを感じたことなど一度もない。ぼくはぼくが羨ましい。
「痛いところを突くね。受動的な人生、決められたレール。いつか見失うなら光など見向きもしなければ良かったんだ」
光……手放したくないヒト。ああ、そうだった。ぼくはもう独りじゃないんだ。
「きみもいずれ知るだろう。喪失の悲しみ。栄光の虚しさ」
だけど、隣にあの子がいてくれるなら。
「そうであることを願いたいね。せいぜい頑張ることだよ、親愛なるぼく」
ぬるい風が頬を撫でて、ぼくは目を覚ました。
辺りはまだ暗く、このところ続いた雨の影響でどことなく湿った空気が漂っている。
明日踏破することになっている瘴気ストリームが不気味な唸り声をあげていて、少し離れたここからでも嫌だろうと耳に入ってきた。胸に鉛が落ちたような感覚を覚え、振り払うように身震いする。
起き上がると、隣で眠っていたフィーが目に入った。すうすうと寝息を立てている彼女を見て少し気持ちが落ち着く。心臓の鼓動が整っていくのがわかった。
改めて自分の状態を確かめると、ひどい惨状である。初夏とはいえ明らかに気温以外の要因でべっとりとかいた汗が気持ち悪い。何か悪い夢を見ていたように思うが、どうにも内容を思い出せなかった。
昔からたまにこの手の夢を見る。一度くらい覚えていても良さそうなものだが、生憎そのような記憶はなかった。
「どうした? 目が覚めたのか」
突然声をかけられて、ぼくはドキリとして振り返った。眠るキャラバンを見守るように小さな焚き火が燃えている。
その炎が今夜の見張り番である姉さんの姿を煌々と照らしていた。
「姉さん……」
思わず口走ってから、しまったと思う。キャラバンに認められた日に、今後は名前か隊長と呼ぶようにときつい口調で窘められていたのだった。
「隊長、起きてたんですね」
誤魔化すように慌てて言葉を繋いだが、今夜の見張り番が姉さんとネイトさんの交代制なのは周知のことで、姉が起きていることを疑問に思うこと自体が不自然極まりなかった。何も言われていないのに叱られた心持ちがして、ぼくは胸が締め付けられるような感覚に陥る。
「別に言い直さなくていい。……明日は体力を使うぞ。眠っておけ」
無機質な声でそう告げられる。炎に照らされた顔の半分がちょうど眼帯の側になっていることもあり表情は読めなかったが、きっと闇夜に隠れたもう半分も微動だにしていないことだろう。
「そうします。……おやすみなさい、隊長」
眠れるあてもなかったが、ぼくは促されるまま再び横になるほかなかった。だけど明日、瘴気ストリームという未知に挑むにあたって、体力を必要とするのも事実。焦れば焦るほど眠りの淵は遠のくというのに、まるで悪循環だった。
「今夜は月がよく出ている。明日は晴れるだろう」
ふいに姉さんの声がした。相変わらず感情の乗っていない声色だったが、どこかこちらを気遣うような意図を感じた。
どうしてそう思ったのかは自分でもよくわからない。そもそもぼくは姉さんのことをよく知らないのだ。キャラバンだった姉とはずっと離れて暮らしていた。
唯一覚えているのは昔はよく遊んでくれたこと。そして、あの日……母さんが旅から帰らなかった日、血だらけで馬車の手綱を握り帰還した姉さんの顔から表情が消えたことだけだ。
「姉さん」
ぼくは今度はわざとそう切り出した。
「隣に行っていいですか?」
「……眠っておけと言っているのに、困ったやつだ」
やや間があって聞こえてきた返事には、けれど強く拒む意思は感じなかった。隣のフィーを起こしてしまわないよう注意しながら、躊躇がちに姉さんのもとへ歩みよる。
姉さんはまっすぐぼくを見据えていた。その視線に心が挫けそうになる。そもそもぼくは何をしようとしているのか……そんな弱音も内心で顔を出した。
それでも、そんなことは決まっているじゃないかと己を鼓舞した。逃げずに姉さんと話さなければ。怖くて先延ばしにし続けてきたけれど、どうしてもこのままの関係が良いとも思えなかったのだ。
ぼくが隣に座ると、姉さんは深くため息をついた。
「変に強情なところは母さんの子だな……」
ドキリとする。姉さんから母さんの話を振ってくるとは思わなかった。
「強情? 母さんにそんなところがあったんだ」
しかし、これは好奇心と言えるのだろうか。ぼくは姉さんのことと同じくらい母さんのことも知らない。
それに、姉さんと母さんの話をすることに意味がある気がした。失った時間を取り戻したいのなら、それこそこれくらい強引な方法でなければならないと感じたのだ。
「普段はそうでもない。ただ、これと決めたことは何があろうと譲らない。そういうヒトだった」
姉さんは顎に手を当てて少し迷うような仕草を見せたあと、どこか懐かしむような口調でそう話した。
そうした姉さんの心の変化に気付くことができるようになっている自分が、どこか他人染みているというか、夢の続きのように現実がふやけていて、両方の境界が焚き火の揺らぎとともに曖昧になっていくのを感じた。
だけど、夢なら夢で構わなかった。姉さんと話すといつも心が傷付き、また傷付けているように思えて、普段ならこんなことできやしないのだ。だからそんな心と離れて自由になれるのなら、ぼくはこれが泡沫の夢であろうと嬉しかった。
「不思議な気分だ。こうしておまえと母さんの話をしているなんて」
「姉さんは嫌……ですか?」
一瞬、風が炎を大きく揺らした。
「嫌ではない。ただ心の内に大切にしまい込んで鍵をかけてしまうだけでは思い出はいつか消えてしまう。誰かと話すことで、共有することで死んでしまったヒトの魂はたくさんの“誰か”の心に居場所を作ることができる。……これを教えてくれたのも母さんだった」
ぼくは黙って聞いていた。母さんの魂がぼくの中にも住んでくれることを祈りながら、もっと聞きたいという想いは募るばかりだった。
「もっと聞きたいです。母さんのこと」
「……そうだな。ちょうど今日のような夜によく二人で話をした。星の名前、大陸の歴史。母さんはよく本を読むヒトだったから、それできっと詳しかったのだろう」
姉さんは立ち上がると、夜空を見上げた。瞬間、僕は姉さんが泣いているのかと思った。喉から声が出かけて、だけど信じられない想いが勝って、結局僕も頭上に視線を向けた。
月がひときわ大きく輝いていて、周りの星々もそれに負けじと瞬いている。
「ふっ。どうにも今夜は感傷的になりすぎているな」
その声はいつもの無機質な声色と違って、自虐的であるにもかかわらず、ヒトの温かみを感じさせるものだった。だけど、ぼくにそれについて何か言及する勇気があるはずもなく、焚き火の前に座り直す姉さんをただ見つめていることしかできなかった。
「おまえとこうして話すことを、あるいは母さんはずっと望んでいたのかもしれないと思ってな」
姉さんは片方の目でぼくをまっすぐ見据えてそう言うと、揺れる炎の向こう側で大きくひとつため息を吐いた。
「この姉を恨めしく思うこともあっただろう。だが……、私が想像したよりずっと、正しく誠実に育った。おまえは頑張っているよ、ルトナス」
「姉さん……?」
その時のぼくはどんな表情をしていたのだろう。信じられない気持ちと、嬉しい気持ち、いろいろ混ざって胸に染み込んでいく。この称賛を自分が受け取って良いものかという気すらしている。
だってぼくの動機はフィーだ。彼女に引っ張られ、後を追い、ここまできた。
そのことを言葉にして姉さんに伝えてみると、姉さんは難しい顔をして首を捻った。
「動機はどうあれ努力したのはおまえ自身だろう。私には、たまにおまえにもっと自分を大切に思って欲しい時がある。あの時だって、おまえは文句ひとつ……」
その時、姉さんの目が見開かれるのをぼくは確かに見た。あるいは、ぼく自身もそうだった。
「あの時って? 母さんが死んでしまって、それでも姉さんが出て行った時のこと?」
「ルトナス」
「そうなんだね? あの時ぼくが止めていたら、姉さんは一緒に居てくれたって、そういうこと?」
ぼくは自分が立ち上がっていることに気がついていた。だけど、どうしても我慢ならない。姉さんの瞳に後悔の色が滲んでいることも含めて。
「あの後、ぼくがどれだけ生き辛かったか。どれだけ寂しかったか……!」
「ルトナス。皆が起きる」
「ずるいよ!」
ぼくは思わず叫んでいた。それくらいは許されると、大義名分を得たつもりでいた。
だってそうだろう。独りだったぼくを、より孤独に追いやって。自分だけは村を守るという母さんの遺志をついで、魔物への復讐も、高貴な使命も果たせる立場に逃げて。ぼくのことなんか、今まで顧みないで。
思えば思うほど、怒りは増していく。呼吸は荒く、握りしめた拳は勝手に震える。
それでも、最後の理性が姉さんの言葉を待っていた。なのに。
「もう済んだ話だ」
姉さんはとても冷たくそう言い放った。ぼくは我慢の限界だった。
「……っ! もう知らない! 知りたくもない!」
姉さんに背を向け、そのまま乱雑に寝袋に潜り込んだ。止まらない動悸と、やってしまったことへの後悔、皆を起こしてしまったかもしれないという恐怖にも似た罪悪感。すべてが胸の中でぐるぐると渦を巻いている。
しばらくして、幸いにも誰も起きてくる気配がないことに安堵した。と同時に、ひどい倦怠感が身体を襲う。きっと疲れているのだ。今夜のことはすべて夢だ。そう言い聞かせ、ぼくはいつしか眠りに落ちていた。
つづく