題名のない本

 お店の入口扉につけた鈴をカランコロンと鳴らして、その青年はたいそう嬉しそうにやってきました。

「マスター、お久しぶりです。木村です。木村省吾。覚えていますか」

 僕は初め青年の勢いに押されて、よく思い出しもせず首を縦に振りました。しかしその青年が僕に握手を求めてきたときに、改めてよく顔を見ると、左目の下に特徴的な泣きぼくろがあるのに気がつき、ようやく記憶の中のある少年と面影が重なりました。

「きーくん。きーくんだね。立派になったねえ」

 僕がしみじみとそう言って彼に笑顔をおくると、きーくんは少し恥ずかしそうに頭をかきました。

「まいったなあ。その名前で今も俺を呼ぶ人、もういないと思ってました」

「ああ、ごめんよ。つい……。もう大人のきみにこの呼び方は失礼だったね」

「いえ、いいんです。どこまでいっても俺は俺ですから。マスターもお元気そうでなによりです」

 そう言うと彼はカウンター席に座って、あの頃のように紅茶を一杯注文しました。

 きーくんこと木村省吾くんは、彼が中学生や高校生だった頃からの馴染みのお客様です。大学入学を機に、彼の生まれであるこの地を離れていたのですが、この度就職が決まって帰ってきたとのことでした。

 木村くんは熱々の紅茶に口をつけると、満足げに頷いて僕に話しかけました。

「うん、相変わらずここの紅茶はおいしいです。お店の雰囲気もあの頃と変わらない……いや、前よりずいぶん繁盛してますかね」

 そうして木村くんはお店をぐるりと見渡しました。そして、ある一点にその視線が止まったのを僕は見逃しませんでした。

「アルバイトの子を雇ったんだよ。おかげでお店も前より少しお客様が増えてね」

 木村くんの視線は明らかに朝潮さんをとらえていました。彼女も気がついたのか、彼に軽く会釈します。

 木村くんは「あの子はもしかして。いや、でも、まさか……」と小声でつぶやきました。

 考えごとをするときの彼の昔からの癖です。高校受験のときも、大学受験のときも、このお店で紅茶を一杯だけ頼んで、参考書を片手にうんうん唸っていたのを思い出しました。こうなると、結論が出るまで周りのどんな声も彼に届かないのです。

 不安げに寄ってきた朝潮さんに、僕は心配ないよと伝えました。彼女はそれを聞いて持ち場に戻ろうとしたのですが、それを木村くんが突然呼び止めたのです。

「待って。ねえきみ、俺とどこかで会ったことがないかい」

 からかったり、ましてや口説いているような雰囲気ではありませんでした。だからか朝潮さんも足を止めて、彼の顔をまじまじと見つめます。しばらくお互いにそうしていて、先に観念したのはやはり木村くんの方でした。

「いや、呼び止めてしまってすみません。そんなはずはないんだ。あれはもう十年は前の話だから」

 そう自分を納得させるようにつぶやいて、彼は今度は僕の方へ向き直りました。そしてこんな話を聞かせてくれたのです。

 

 俺がまだ中学生だったとき、こんな話をしたのをマスターは覚えていますか?

 俺の中学に代々伝わる七不思議。その一つです。図書室に題名のない本があって、その本には読んだ者の未来が記されているっていう、あれですよ。

 思い出してくれましたか? えっと、俺がその本を見つけたっていう話も?
 なら話が早いです。あれはちょうど今みたいに太陽が半分沈んだ放課後のことでした。

 俺、勉強が大の苦手で、なにかきっかけがないと始められなかったんですよ。だからこのお店にもすいぶんお世話になりましたし、お金がないときは図書室にこもって授業のノートと向き合っていました。

 でもその日は特に頭が勉強モードに切り替わらなくてですね。なにか短い本でも読んで気を落ち着けようと、席を立って本を選んでいたんです。

 そうしたらあったんですよ。古くて黄ばんだ表紙に、題名も何も書かれていないその本が。たしか辞書コーナーのちょうど陰になるところに一冊だけ、ぽつんとあったんです。

 俺、図書室にはよく行きましたけど、読書のためじゃなかったんで、短編小説を探してそんなところまで見に行っちゃってたんですね。だから、これはもう運命だなって。胸が高鳴って、でもほんの少し怖いような、まるで悪いことをしているような想いでその本を手に取ったんです。

 中身は意外なことに絵本でした。それもお世辞にも上手いとは言えない、子どもが描いたような絵で。だけど文章はしっかりしていました。
 それはヒーローのお話でした。なんでもない普通の男の子が、ヒーローになってみんなを幸せにするんです。
 俺も中学生でしたし、その、共感しやすい年齢だったと言いますか。その本の逸話も知っていましたから、これはもう自分の隠された願望に間違いないって思って。お恥ずかしながら、この度公務員として故郷に戻ってきたわけでして。

 あ、言ってませんでしたっけ。俺、県職員になったんです。ヒーローに比べたら地味ですけど、だけどこの街のみんなに少しでも笑顔になってもらおうって、無い頭でそれなりにしっかり考えて、この道を選びました。

 ありがとうございます。へへ。なんだか改まって褒められると照れちゃいますね。

 そうだ。で、その今の俺を決定づけた本なんですけど、俺はそっと元の場所に返したんです。これは親しい人、それも学校の外の人にしか話さないようにしたいって思って。だって学校の七不思議ですよ? 下手なやつに話しても馬鹿にされて終わりに決まっています。それに、この本の話が広まって、他の人に読まれるのも何か嫌でしたし。

 そうして鞄を置いた机に戻ろうとして、そのとき見たことのない女子とすれ違ったんです。それがあのアルバイトの子に似ていた気がして……さっき。
 馬鹿ですよね。さすがに本人なわけありませんし、その子を見たのもそれっきりでしたから、記憶も曖昧なのに。

 ただ、その子が辞書コーナーの陰にしゃがみこんだのを俺はしっかり覚えています。 
 まるで最初からその本が目的だったみたいに、まっすぐですよ。それで確かにその本を借りていったんです。おいおいって思って、すぐに引き返したんですけど、やっぱり俺が戻したその場所に例の本は無くて。振り向いたときにはその女子もいなくなっているし、俺はいよいよこれは本物だなって思って、その本に描かれたヒーロー像を自分なりに目指してきたんです。

 この部分はマスターにも今初めて話しましたね。とにかく、本の存在はまだしも、書かれた内容は俺だけのものだと思っていましたから、ずっと秘密にして頑張ってきました。
 なんて、まだヒーローになれたわけでもないんですけどね。やっとスタート地点です。

 

 そんな風に思い出話を誇らしげに語ってくれた木村くんは、とても晴れやかな表情をしていました。あの日、興奮気味に件の本を見つけたことを報告してくれた少年の顔が、今の彼に重なります。若い頃の十年なんて、それこそこの街を通り抜ける潮風のごとく鮮烈に、爽やかに、あっという間に吹き去ってしまうものだと改めて感じました。

 おそらくは彼にとってもそうだったに違いありません。ヒーローを目指して駆け抜けた青春を、僕はほんの少しうらやましく思いました。

 僕の場合は寄り道がありましたから。まっすぐに歩んできた彼の道のりを思うと、よく頑張ったねという温かい気持ちとともに、どうしても羨望の情が湧いてしまいます。
 しかし若い者に嫉妬するなんて、年長者としてこんなに格好悪いことはありません。僕はなんとか笑顔を取り繕って、彼の背中を優しくたたきました。

 木村くんははにかみながら少し泣いていたように思います。そしてあの頃と同じように、紅茶を一杯、たっぷり時間をかけて飲んで帰っていきました。

 さあこれからお客様も増える時間帯です。彼に負けてられないぞと、僕は小さく拳を握りしめて気合いを入れました。その日は僕の予想通り、とても忙しい日になりました。

 

 最後のお客様がお帰りになって、僕は大きく伸びをしました。

「お疲れ様です」

 丁寧にテーブルを拭きながら、朝潮さんは僕の方を見て労ってくれます。彼女の方こそ大変だったでしょうに、本当に優しい子です。僕は今日働いてくれた朝潮さんと荒潮さんに、コーヒーを淹れて休憩を促しました。

 すると席に着いた荒潮さんが、開口一番に木村くんの話をし始めたのです。

「きーくんって呼ばれてたあの男の人、朝潮ちゃんを口説く気だったのかしらあ」

「聞こえていたのかい?」

「艦娘はー、耳がいいのよ」

 荒潮さんはこともなげにそう言って、両手でコーヒーカップを支えてふうふうと息を吹きかけていました。彼女が猫舌なのは知っていましたから、アイスにしてあげるべきだったかと僕がちょっと悔やんでいたとき、隣で朝潮さんが一拍遅れて意味に気づいたようでした。

「荒潮。冗談はやめなさいっ。あのお客様はわたしもよく覚えています。あの日、図書室でわたしと目があったときと、ほとんど同じ顔をしていらっしゃいましたから」

「え」

 僕は思わぬ発言にすっかり間の抜けた声を出してしまいました。朝潮さんたちが艦娘で、見た目の上では歳をとらないことは聞いていましたが、彼女たちがあんまり人間らしいものだから、このときはすっかり意識から抜け落ちていたのです。

「え、では木村くんの見た女子生徒というのは……」

「はい。わたしだと思います」

 朝潮さんは少し気恥ずかしそうに、だけどはっきりと言い切りました。

 僕は、なんでまた中学校の図書室に自衛隊員であった朝潮さんが居たのか、当然不思議に思いました。だけどそれを尋ねる前に、朝潮さんに釘を刺されたのです。

「極秘任務でしたから。こればっかりは灰島さんといえどお話しすることはできません」

 少し胸を張って朝潮さんは言いました。なんだかその様子がいつもより幼く見えて、僕は微笑ましい気持ちになりました。同時に、少し意地悪してみたくもなったのです。

「そうか。黒峰くんとの秘密なら仕方ないなあ」

「ええ。司令官との大切な約束ですから」

 なるほど、黒峰くんの指示か。

 僕は心の中でひとつ状況を整理しました。木村くんの証言から、朝潮さんはその日に限って中学校の図書室へ潜入していたのだと思います。彼女が学業を修めていたのだとすれば、彼にもいくらかは見覚えがあっただろうと考えたからです。

 とすれば目的は図書室の、例の題名のない本。これを手に入れることだったのではないかと推理します。でも何故。
 僕の推理がそこで立ち止まったところで、今度は荒潮さんがニコニコ笑いながら朝潮さんに話しかけました。

「そうねえ。司令官の威厳に関わることだもの。信頼のおける朝潮ちゃんにだから任せられたのよね」

「ええ。それはもう。わたしは司令官の秘書艦でしたから」

 荒潮さんが僕にヒントをくれているのは明白でした。こっそり僕にウインクして、それから駄目押しとばかりにこうも話してくれました。

「司令官は本当に朝潮ちゃんを信頼していたのよね。じゃなかったら、あんなに個人的なお使いにわたしたち艦娘を使うはずないもの」

「個人的な用事……」

 僕は思わずつぶやいていました。そして、ひとつの仮説が立ったのです。

「もしかして、その題名のない本というのは黒峰くんと関係があるのかい? いっそ、彼が描いたものだとか……」

 痛いほどの沈黙が場を支配しました。やっと気づいた朝潮さんは、荒潮さんの方をじっとにらんでいて、その視線の先の荒潮さんは荒潮さんで、不自然な方角を向いて素知らぬ顔をしています。

「あ、や、詮索するつもりではなくて……すまない」

 僕は慌てて言い訳をしました。姉妹喧嘩に発展するのだけは止めたかったのです。

 朝潮さんはそんな僕と荒潮さんを交互に見て、そのあと大きくため息をつきました。そうして珍しく拗ねたように口をとがらせて真相を語ってくれました。

「そうですよ。あの本はこの街で育った司令官が、中学生だったときに描いた本で間違いありません。ちょっとした出来心で図書室に隠したそうなのですが、まさか司書の先生にも見つからず何十年もそこにあって、学校の七不思議に数えられる存在になっているとは思わなかったようです」

「彼はこの街の生まれだったのか。黒峰くんと出会ったのは他県の高校だったから、知らなかったよ」

 僕はあえて彼が本の書き手だという情報に触れないようにしました。誰にでも若気の至りってものはありますから、亡くなった彼のそんな一面をからかう気になんてなれません。

 なにより、彼が夢を叶えたことを僕は知っているのです。そして一人の別の若者に夢を分け与え、それが実ろうとしていることも。

 朝潮さんは未だ不本意そうにしていましたが、やがて観念したようにテーブルに突っ伏して弱音をこぼしました。

「ああ、司令官ごめんなさい。朝潮は司令官との大切な約束のひとつを守れませんでした。朝潮は不出来な艦娘です」

「待って。待ってくれないか朝潮さん。きみは決して不出来なんかじゃない。そうして自分を貶めることは、きみを信頼していた黒峰くんの想いも貶めることになる。そうは思わないかい?」

「ですがわたしはその信頼を裏切ったのです。司令官の恥ずかしい過去を白日の下にさらしてしまいました」

「それもちょっと待ってほしい。きみは、黒峰くんが夢を描いたその事実を、恥ずかしいと思うのかい?」

 僕は慎重に、だけど少し強い口調で彼女に迫りました。

 朝潮さんは目を白黒させながら、まるで虚を突かれたようにしどろもどろになってしまいました。

「それは……ですが司令官が」

「それは本人にしてみれば恥ずかしい過去だったかもしれないさ。だけど僕はそう思わないんだ。なぜって、木村くんをきみも見ただろう。彼は黒峰くんのおかげで夢を自分の心の中から見出したんだ。黒峰くんの本は、少なくとも若者を一人導いたんだよ。そのことを、朝潮さん自身は恥ずかしいと思うのかい?」

 ごくりと朝潮さんが唾をのむのがわかりました。彼女は今まで見たことがないほど不安げに僕を見上げています。
 やがて、朝潮さんは目を閉じ、そっと握った拳を胸に抱きかかえました。

「そう……ですね。司令官は誇っていいと思います。そして司令官の誇りはわたしたちの誇り……。わたしはとんでもない失礼を働いていたようです」

 そうして荒潮さんの方へ向き直って謝罪しました。

「ごめんなさい、荒潮。それと、大切なことに気づかせてくれてありがとう」

「あらあ。わたしは何もしていないわ。それより朝潮ちゃんが誇ってくれたことこそ、司令官は喜んでくれているんじゃないかしら。それに、わたしも」

 そう言って荒潮さんはすっかり冷めたコーヒーをようやく口にしました。

 彼女の言葉に僕も同意です。黒峰くんは恥ずかしがるべきじゃなかった……なんて偉そうなことは言えません。だけど、今を生きている僕たちが彼の行いを恥ずかしいと思うことは、それと同じくらい罪なことでしょう。

「姉妹喧嘩にならなくてよかったよ。それこそ彼が悲しむ」

「ええ。灰島さんもありがとうございました。さすがは司令官のご友人。この朝潮、目の覚める思いです」

 いつもの生真面目な朝潮さんに戻ったなと、僕は苦笑いしながらも安堵していました。

 

 黒峰くん、彼女たちはとても良い子だよ。特に朝潮さんはきみに似て、素晴らしくまっすぐで、頑固だ。彼女といるときみを思い出さずにはいられないよ。

 僕はそんな想いにふけながら、今日も慌ただしい一日が終わっていくのを感じるのでした。

<< >>

Novelsへ戻る
TOP

2022年2月26日