見えない宝物

 店内の一画、一番隅のテーブルで、だけど最も華やかなお茶会が開かれるようになって久しい頃。

 以前のこのお店ではまず見なかった年齢層、とりわけ近隣の女子生徒さんたちに僕は戸惑ってばかりいます。彼女たちはいつもお店の片隅で、だけど輝かしい存在感を持って、会話に花を咲かせているのでした。

 ああいうのを女子会と言うのかな、などと僕は窓から差し込む夕陽を手で遮りながら思います。このお店はどちらかと言えば年配の、それも男性のお客様でもっていたようなものですから、新しい刺激は僕の目に少しばかり眩しく、また不安にも映るのです。
 僕は彼女たちと上手く話せるでしょうか。常連の同年代のおじさまたちと昔話に興じたり、お疲れの様子の中年のサラリーマンと他愛のない話で一時の安らぎを共有したり。おそらく、そのように簡単なことではないのだろうなと頭を抱えます。

 そんな僕が羨望の眼差しを向けているのが、ちょうどその女子会に溶け込んでいる荒潮さんでした。彼女は僕の一種の畏敬の念に気がつく素振りもなく、まるで初めから女子生徒さんたちと一緒に来店したかのように、彼女たちの輪に入り込んでいて。いやはや、敵わないなあと、この老人は肩を落とすばかりです。こんな有り様で荒潮さんたちがこのお店を去っていってしまった後も、同じようにやっていけるのでしょうか。

 そうした不安もあって、僕は悪いと思いながらも、彼女たちの話に耳を傾けていました。というより意識していなくても、時折り上がる黄色い声は僕を含む周囲の注目を集めています。
 度が過ぎれば注意しなければいけませんし……だとか、これも若い子を知るための勉強だ……だとか。そんな理由を免罪符に、僕は彼女たちの一人がどうやら恋愛相談をしているというところまで、すっかり遠くなった耳を酷使して聞いていたのでした。

「それでさ。私、思ったのよ。これこそ運命だーって。二組の石田くん、なんとか振り向いてくれないかなあ」

 おそらく地毛ではない金髪の、一番人目を引く女の子が頬杖をついて嘆息します。お店の古びた天井に向けられた瞳は、きっとそれは映していないでしょう。若いって良いなあと、僕はまた年寄りくさい気持ちを抱きました。

「だけどさー。サチ、一年の時にはサッカー部の竹中先輩が好きって言ってたじゃない。あれはどうなったのよ?」

 やはり地毛ではなさそうな明るい茶髪の子が、フォークを片手にぷらぷらさせながら、呆れたようにサチさんへ疑いの目を向けます。

「いや、あれは違うんだって! だって竹中先輩はあれからすぐにサッカー部辞めちゃったもの」

「そりゃあ三年生だかんね」

「しかももう学校に居ないし……」

「サチは知らなかったみたいだけど、この国では中等教育は三年間なのよ」

「だから思ったの。あれは運命じゃなかったんだって。同じ学年の石田くんこそ私にとって運命の人なの!」

「はいはい」

 茶髪の子はどうやらサチさんのお話には懐疑的な様子。それでも、こんな古い喫茶店で恋のお話に付き合ってあげているあたり、仲は悪くないのでしょう。そう思うと彼女はこの時間を一番楽しんでいるようにも見えます。すると。

「だいたい、石田くんはあんたみたいな馬鹿っぽい女に興味ないと思うよ」

「ひっど! なにそれひっど!」

 茶髪の子の辛辣な言葉にもサチさんは大笑いしています。そしてつられるように茶髪の子と荒潮さんも楽しそうに笑い始めました。
 ただ、そんな空気になってみて初めて、ここまで一言も話していない黒髪の子に僕は興味を持ちました。彼女だけがどうして良いのかわからないかのように曖昧な笑みを浮かべているのです。

「それでさ。私、なんとかして石田くんと付き合いたいの! 三人とも手を貸してよ!」

「馬鹿にかまえば日が暮れるわね」

「そうねえ。石田くんの趣味とかがわかればー、そこから話のきっかけが掴めるかもしれないわあ」

「ナイス! あらちゃん、そういうの! そういう意見待ってた!」

 サチさんは親指を立てた後、破顔して荒潮さんに抱きつきました。厳しい指摘を流された茶髪の子は、その光景にやれやれと首を振っています。そして例の黒髪の子は、やはりコーヒーカップに顔を埋めるのみでした。
 というか荒潮さん、本名を隠しながらどうやってあそこまで仲良くなったのかと思っていたら、しっかりニックネームが定着していたのですね。僕はなぜか朝潮さんと満潮さんが頭に浮かんできて、あの二人には無理そうだなあと失礼な想像をしてしまいました。

「石田くん、たまに図書室で見かけるなあ」

 そのとき、彼女たちの中で一際小さく、かつ遠慮がちな声が聞こえたような気がしました。というのも、僕の耳はとても老いているわけでして。この距離では自信が持てなかったのです。

「ほんと!? アカリ、石田くんと同じクラスだもんね!」

 サチさんが椅子から立ち上がるほどの勢いで黒髪の子を見つめなければ、僕は先ほどの声の主がわからないままだったでしょう。アカリさんと呼ばれたその子は、目をまんまるにして、ただこくりと頷きました。

「やった! そうだよ、アカリって図書委員じゃん!」

「あらあら、素敵な偶然ねえ」

「アカリ、こんなやつ手伝ってやることないぞ」

 三者三様の反応にアカリさんは戸惑っているようでした。
 僕でもたぶん同じようになるでしょう。急にスポットライトを浴びることほど、気が動転する日常のシーンはありませんから。
 僕がそんな一方的な同情をアカリさんに向けていると、今度はサチさんが必死な面持ちで彼女を見ているのに気がつきました。そして、やはり一生懸命な声で頼むのです。

「ね、お願いアカリ。石田くんとの仲を取り持ってよ。私たち、小学校からの友達じゃん」

 一瞬の静寂。
 僕はアカリさんが困っているのかと考えていました。しかしどうやら勘違いだったようです。
 次の瞬間には、とても嬉しそうな顔で「いいよ」と首を縦に振る彼女の姿が見られました。

 その時僕はアカリさんが内気な性格であることを前提に、友達に頼られたのが誇らしかったのだろうと予想しました。恋愛に友情、やはり若い頃のこれらは宝物です。

 僕は、黒峰くんと当時どんな話をしていたのだったか。恋の相談なんて僕には縁がなかったから、黒峰くんはモテただろうに気を遣ってくれていたのかな。
 そんなことを考えている間も、お店の片隅からは女の子たちの弾むような青春が奏でられていました。

 ※

 その日の営業時間が終わり、後片付けをしていた時のこと。
 荒潮さんがそっと僕に近づいてきて、耳元でこうささやきました。

「マスター、夕方頃の女の子の秘密の話、こっそり聞いていたでしょう」

 僕は一瞬どきりとしましたが、隠しても仕方がないと、恥を忍んで本当のことを打ち明けたのです。それに対する荒潮さんの返答は、一瞬、意味を掴みかねるものでした。

「あらあら、いけないわねえ。殿方が女の子の戦場に近づくものではないわあ」

 彼女はそうとだけ言って僕に背を向けると、鼻歌混じりに遠ざかっていきます。
 僕は今彼女に聞かなければ、おそらくこの話は終わってしまうのだと、自分でもよく理解できない焦燥感に駆られ、慌てて荒潮さんを呼び止めました。

「荒潮さん、戦場とは……?」

「え? うーん。そうねえ」

 荒潮さんは立ち止まると、少し考え込んでいる姿を見せました。
 しかしそれも一瞬のお話。彼女は近くのテーブル席に備え付けられた椅子をそっと持ち上げると、僕の目の前に置き直します。
 そうしてその椅子にちょこんと腰掛けると、他愛もない様子で話し始めたのです。

「恋の戦場ってところかしら。サチちゃんは策士ねえ」

 荒潮さんは口もとに手を当ててくすくすと笑いました。
 そして話が掴めずにいる僕を一瞥すると、これもまた楽しげに「マスターって見た目どおりこっちには疎いのねえ」と口にします。
 僕はいろいろ質問したい気持ちをぐっと堪えて、荒潮さんの可愛らしい口が再び開かれるのをただじっと待っていました。
 なんだか、女の子同士のお話に興味津々な男子生徒みたいで気恥ずかしくはありましたが。

「そうねえ。マスターはアカリちゃんをどう思うかしら」

「アカリさんとはあの黒髪の子で合っていますか」

 荒潮さんが首肯したのを確かめて、僕は僕の中の印象そのままに語ってみました。

「そうですね。友達想いで、少し大人しく、でも優しい子でしょうか」

「マスターの人を見る目はさすがねえ。一つも間違っていないとわたしも思う。けれどー、一つだけこの話の肝に気づいていないわあ」

「肝、ですか」

 僕は顎に手をやって考えてみましたが、思い当たる節が見つかりません。
 すると荒潮さんはあっさりと、それも僕からすれば驚きの情報を口にしたのです。

「アカリちゃんは、石田くんのことが好きなのよ」

「えっ」

 あんぐり開いた口が塞がらない僕を尻目に荒潮さんは続けます。

「たぶんー、アカリちゃんもまだ自覚していないかしら。けど少なくともサチちゃんとキョウちゃんは女の勘で知っていたでしょうねえ」

 キョウさんとは茶髪の子のことでしょう。しかし今はそれよりも気になることがありました。

「で、ではサチさんはアカリさんを」

「騙したわけではないでしょう? アカリちゃんが恋に気がつく前に先手を打ったというだけ。友達っていうのも嘘ではないわあ。その立ち場を使って協力を取り付ける算段があったくらいには、もちろん親しいのよ」

「だったら、なおさら!」

 友達を利用したということではないですか。その怒りの言の葉は、荒潮さんの手によって文字通り塞がれてしまいました。

「あのね、マスター。サチちゃんが特別悪い子だとは思わないで。私からすれば、欲しい愛のためになりふり構わないのは、むしろ好意的にすら思えるの」

 いつもとは少し違う、荒潮さんの誠実な言葉、真摯な声色に、僕は口をつぐみました。
 まだ心のもやは晴れたわけではありません。ですが、まるで親に諭された子どもの頃のように、僕は納得いかないなりに彼女の言葉を受け入れるしかありませんでした。

 そんな僕を荒潮さんは困ったように見つめています。そうして今度はどこか遠くを見ているような視線をぼんやりと天井へと向けました。

「本当に大切なものは見えないのよね。アカリちゃんはこれから絶対苦しむことになるわ。だけど、それはサチちゃんも同じなのよ。もしかするとキョウちゃんでさえ」

 何もない宙を掴むように、何度も何度も荒潮さんは頭上にかざした腕を動かしています。

「きっと失ってから気づくの。ああ、大切なものは“ここ“にあったんだって。もう手の届かないところへいってしまってから、やっと後悔するの。満潮ちゃんは、それが生きることだ、なんて言うけれど。私は――」

 その時、荒潮さんの瞳に今映っているのは、古びた天井でも、遠くの何かでもなく、どこかにいる”誰か“なのだと、そんな確信めいた想いが胸に溢れました。
 僕は心のままに彼女の肩を強く揺すります。その”誰か“が彼女を遠いどこかへ連れていってしまわぬうちに、そうしなければならないと思ったのです。

「荒潮さん。荒潮さん!」

「マスター?」

 まさに夢から覚めたように、彼女の瞳に光が戻りました。
 そうしてその光に僕が映し出されたのを見て、僕はやっと安堵して、つい思ったことをそのまま口走ってしまったのです。

「きみが何を経験してきたのかは僕にはわからないけれど」

「マスター?」

 先ほどと同じ問いかけ。しかし今度のそれには怒気が多分に含まれているように感じて。
 僕は恐る恐る笑みを浮かべた荒潮さんに尋ねました。

「えっと、荒潮さ――」

「マスターにはデリカシーって言葉がないのかしらあ」

 荒潮さんは怒っていました。
 いつもの口調で、いつものように笑顔で、だけど絶対に怒っていらっしゃいました。

 理不尽な気もします。結局僕は見た目で言えば何回りも年下の少女に、教えられ、諭され、振り回されて、叱られて。
 いったい良い歳の大人が何をしているのやら情けなくもなります。しかし不思議なことに、それよりもずっと可笑しいって感情が勝っていたのです。僕はついには声をあげて笑っていました。

 荒潮さんは一転、きょとんとした表情を浮かべていましたが、すぐに拗ねたように口を尖らせると、そのままそっぽを向いてしまいました。
 それも当然でしょう。僕は寝起きの彼女の機嫌を損ねたのですから。だから、ご機嫌取りではありませんが、先ほど言いかけた言葉の続きを紡ぎました。

「荒潮さん。僕にはきみの過去に何があったのかなんてわからないけれど、僕は今ここにいますよ。荒潮さんの大切な人たちだって、ちゃんときみの手の届くところにいます。きみが、きみたちが帰るというまで……絶対にここに居続けます」

 僕は彼女が安心できるように真実の気持ちを伝えたつもりです。
 だけど、荒潮さんの返答はまた理解しかねるものでした。

「わたし、そんなに軽い女じゃないわ」

 頭に疑問符を浮かべ、「どういう意味だい?」と問いかけかけた僕に、荒潮さんは頬を膨らませて目を合わせてくれなくなりました。それから数日間、ずっと。

 

 そんなふうにきみに振り回された日々も今は昔。
 きみたちの居ない店内で、古びた天井を見上げては、たまに思うのです。
 荒潮さんの言っていたとおり、確かに大切なものはなかなか見えないのだなあと。だけど僕の場合は失う前から宝物だと知っていましたから、今もその時も、ちゃんと大切にできていたと自信を持って言えます。
 そこは年の功かな、なんて思いながら……今日もまた、実年齢も知らない小さな友人たちに、お店の片隅で想いを馳せているのです。

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2023年2月7日