とある日の、海に沈む夕焼けが街をオレンジ色に染め上げる時間帯でした。
お店には僕と、鼻歌交じりにテーブルを拭いている朝潮さん、そして常連の永井さんの三人がいました。永井さんは僕よりも幾分お年を召された方でして、週に何度かこの時間に海辺の散歩ついでに来店してくれるのでした。
いつもはもっと覇気があって、白髪がライオンのたてがみみたいに見える永井さんは、今日に限っては静かにコーヒーカップを揺らして物思いに耽っていらっしゃいました。
僕は特にそれを指摘するでもなく、なにかあったのかな、なんて心の内だけで慮っていました。店内には朝潮さんの鼻歌だけが相変わらず優しく響いています。
「歌が笑っているね」
そんなゆったりとした時間の流れる中、唐突に永井さんが呟きました。
朝潮さんははたと気づいて鼻歌をやめ、顔を赤らめます。
「ああ、萎縮しなくていい。ずいぶん懐かしい歌だ。だれかに習ったのかい?」
永井さんは朝潮さんの方を振り向くと、そう声を掛けました。
「はい。昔、みんなでよく歌いました」
朝潮さんが答えると、永井さんは僕も見たことのない顔で穏やかに笑いました。
「昔。昔か。それはいい」
そのあと僕の方へ向き直ってこうもささやきました。
「面白いお嬢さんを雇ったんだね。店が華やいでいいと思うよ」
僕が「ええ」と短く返事をする間に、朝潮さんは遠慮がちに咳き込むと、今度は本当に歌い始めました。それはとても澄んだ美しい歌声でした。
永井さんはじっと目をつむって、その歌声に耳を傾けているようでした。僕もそれに倣うようにカップを拭く手を止め、朝潮さんの歌に聴き入りました。
今度の歌は聞いたことのないものでした。それでいてどこか懐かしいような、不思議な歌です。
彼女が歌い終わると、永井さんはそっと手を合わせて涙をとめどなく流していました。それを拭う素振りも見せず、彼はこう言ったのです。「驚いた」と。
「その歌をまた聴けるとは思わなかった。ああ、マスターすまない。みっともないところを見せてしまったね」
永井さんは僕の手渡したティッシュで涙を拭うと、朝潮さんに向かって何度も何度も拍手しました。
すっかり照れてしまった朝潮さんが恥じらいを見せて手で顔を覆うと、永井さんはようやく手を叩くのを止めて、彼女に改めて賛辞を送りました。
「本当に素敵な歌だった。もしよかったらその歌をどこで知ったか聞いてもよいかな」
朝潮さんは小さな指の間から顔を覗かせて、永井さんをじっと見つめているようでしたが、やがて落ち着いたのか、いつもの凛とした少女の顔に戻って答えました。
「以前お世話になった方から教わったのです。この歌はその方が作られたものなんです」
「そうか。そうだったか」
永井さんは納得したように何度も頷くと、少し恥ずかしそうにこんな昔話を聞かせてくれました。
私は若い頃に妻を亡くしてね。お互いの親同士が決めた結婚ではあったんだが、まあ、その、私は妻を愛していた。子宝には恵まれなかったけれどね、平凡で良い家庭だったと思っているよ。
ああ、お嬢さん。そんな顔をしないでくれ。これは本題ではないんだ。ただ話しておかないと話がとっちらかるから……。私は話下手で。
えっと、そう。若くして独り身になった私は、仕事に傾倒するようになった。よくある話さ。当時は悲しくて、自分が悲しいとさえわからなかった。気づけないままに忙しい方がなにかと都合がよかったんだ。
だけどそうやって仕事一筋で長くやってきて、私は他に何もできない男になっていた。ありていに言えば生きがいになっていたんだ。それにすがって生きていた。
そうして出世の機会にも恵まれて、私はたしかに充実していたんだと思うよ。今考えれば必要な時間だったのだとも思わなくはないかな。
だけどね、神様はとても意地悪だった。突然深海棲艦なんてものが現れただろう。あれで貿易系の会社だった勤め先は大打撃を受けた。あの頃は珍しい話ではなかったけれど、会社は倒産し、私は仕事という唯一のよりどころを失ってしまったんだ。
荒れたね。恥ずかしい話だけれど、酒におぼれて毎晩海へ出かけた。もちろん禁止されていたことだけど、当時の警察や自衛隊に見回りをする余裕まではなかったんだろうね。誰にもみつからなかった。
深海棲艦とやらの顔を拝んでやろうと思っていた。そして文句の一つも言って死んでやろうと。まともじゃないよね。まあ、だから恥ずかしい話なんだけどさ。
けれど深海棲艦には会えなかったよ。毎晩砂浜で酒を浴びるほど飲んでは、うんともすんとも返さない海に向かって、ただただ叫んでいた。
「俺はここにいるぞ。殺せるものなら殺してみろ」ってね。
そうしていたらね、ある晩不思議な出会いがあったんだ。そう、ここからが本題。マスター、頼むから笑わないで聞いてくださいよ。
笑わないって? そうだね、うん。私の知るマスターはそうだ。すまない。
本当に突拍子もない話だから。私自身、今の今まであれはやっぱり幻だったのかもしれないって思っていたくらいさ。
えっとね。いつものように海に向かって喧嘩を売っていたら、すぐ後ろから女の人の声がしたんだ。
「そんなに元気があるなら歌おうよ」って。弾むような声だったよ。
振り返ったら、そこに居たのは若い娘さんだった。それが驚くほどきれいな子でね。思わず声を失ったほどだ。妻には絶対に内緒だけどね。
私が答えに窮しているのを見て、彼女は照れくさそうに笑ってさ。そうして唐突に歌い始めたんだ。
歌そのものが笑っているような明るい曲調でねえ。聴いたことのない旋律なのに、どこか懐かしい。元気が心の底から湧き出るような、そんな不思議なメロディーだった。
なによりも彼女があんまり楽しそうなものだから、私も我慢できずに一緒に歌いだしてしまったよ。最後の方は彼女も私も踊っていた。
想像できないって? そうだね。返すがえすもあんなことは人生であの一度きりさ。ただただ楽しかった。それも自棄っぱちで酒をあおるのと違って、前向きな楽しさ。明日からはまっとうに頑張ろう。その時の私はたしかにそう感じていたんだ。
歌って踊って、満足した私はいつしか浜辺に仰向けになって倒れていた。その時まではたしかに彼女の気配を隣に感じていたんだ。だけどちょっと目をつむった瞬間に私は意識を手放してしまった。きっと、疲れていたんだろうね。
次に目を覚ました時には彼女の姿はどこにもなかった。家に帰ったのだろう。その時の私は単純にそう考えて、ちっとも不思議に思わなかった。
彼女の存在が幻だったのではないかと冷静に考え始めたのは、それから少し経ってからだ。だって考えれば考えるほど不自然だろう。あのご時世に海辺に女の子が一人で現れるなんて。それも真っ暗な夜に。
おまけに新しい職場に落ち着いた頃、周りの人たちにあの時のメロディーを聞いて回ったんだが、誰もそんな曲は知らないと言うんだ。もっと言えば、この辺りの若い人たちはみんな集団疎開していて、そのような若い娘さんは心当たりがないときた。
だけどね。幻なら幻で良いとも思えたんだ。たしかに私はあの歌に生きる気力をもらったし、あの少女のおかげで世界に色が生まれた。世間一般が暗かったあの時期に、周囲を励ますだけの心の余裕までできたんだ。
被災地を回ってボランティアをしたりね。おかげ様で周りに一目置かれるようにまでなった。すべて、あの少女と歌があってこそだと思っているよ。夢の中でもいい。もしもまた出会えたなら、きっとお礼をしたい。そう未練たらしく思っているくらいにはね。
「昔の話さ。聞いてくれてありがとう」
そう話し終えた永井さんは、そっとコーヒーカップを手に抱いてそのぬくもりを感じているようでした。優しく、安らかなその横顔を、僕と朝潮さんは彼を挟んで反対側から見守っていました。
朝潮さんの顔には葛藤の色が見られるのに僕は気が付きました。きっと件の少女も朝潮さんたちと同じ艦娘だったのだろうと僕は察したのです。
しばらくの間、壁にかかった古時計がチックタックと鳴る音だけが店内に響いていました。誰一人言葉を発せず、ただ永井さんの次の言葉が待たれます。しかし彼は少しも慌てることなく、優雅にコーヒーの味を楽しんでいるのでした。
「あの」
耐えきれなかったのか、朝潮さんがその静寂を破り永井さんに話しかけました。
永井さんは朝潮さんの方を向くと、穏やかな声で「なんだい? お嬢さん」と逆に問いかけました。
「聞かれないのですね。その方とわたしの関係を」
朝潮さんが困ったように眉を下げると、永井さんはふうむと唸って、あごに手をやるとこんなことを言いました。
「きみが聞かせてくれるのなら」
「それは……」
朝潮さんはすっかり答えに困ってしまったようでした。
永井さんにしては少し意地悪ではないかと僕も思います。
だけどそんな僕らの心情を見透かしたように、永井さんは目を細めて言うのでした。
「きみはあの子によく似ているね。姿が……というわけではないけれど、なんというか、まとっている空気がそっくりだ」
親しみ、旧懐、哀愁。きっとそれらの複雑に混ざった瞳で、永井さんは朝潮さんを見つめていたのでしょう。
僕は助け舟を出そうとして、だけどなにも思いつきません。名前を呼ぶことさえできないままに、朝潮さんの決断をただ待っていました。
朝潮さんはぎゅっと拳を握りしめて立ち尽くしていましたが、やがて、一言だけ口にしました。
「あのひとは、もういません」
やっとのことで絞り出したであろうその言葉に、嘘のにおいは感じませんでした。
そう思ったのは僕だけではないようで。永井さんはすぐに席を立つと、朝潮さんの方へ数歩歩み寄り、深く頭を下げました。
「すまない。事情も知らずつらいことを聞いてしまった」
そう言って何度も謝罪する彼を、朝潮さんが止めます。
「ああ、違うんです。わたしが言いたかったのは、そう、彼女はあるべきところへ帰ったんです。わたしたちは本来そうあるべきで、わたしは、ある方との約束を果たすために残っているだけで……」
そこまで話して、朝潮さんははっとしたように口を手で塞ぎました。
「もう。わたしとしたことが変なことを言っていますね。ごめんなさい。ただ、悲しんでほしくないのです。あのひととの思い出は笑顔で話せるものであってほしい。これはわたしの願いです」
永井さんはじっと立ち尽くしていました。その背中がなにを思っているのか、僕にははかり知れません。けれど、次の瞬間彼は朝潮さんに頷き返すと、確かにこう言いました。
「そうだね。きっときみの言うとおりだ」
僕からはつつましく笑う朝潮さんの顔しか見えませんでしたが、きっと永井さんも笑っていたのだと思います。
それから永井さんは席へ戻ると、僕へ耳打ちしました。
「マスター、やっぱりあのお嬢さんにあとで私が謝っていたと伝えておいてくれないかな。今日はとても感傷的になってしまったけれど、でも良い日になった。ずっと探していた宝物をみつけたような気分だ。……それじゃ、私はこれで失礼するよ」
そう言って彼は席を立ちました。お会計を済ませて、最後に朝潮さんの方に手を振って、「ありがとう」と声をかける姿が印象的でした。
永井さんがお店から帰っていくのを朝潮さんと並んで見送りました。すると、白い獅子のたてがみのような髪が扉の向こうへ消える瞬間、弾むような女性の歌声が聞こえた気がしたのです。
びっくりして朝潮さんの方を見ても、彼女は唇を動かしていませんでした。今の歌声はいったいどこから……。そう不思議に思っていると、永井さんが閉まっていく扉の向こうでこちらを振り向いていたのが見えたのです。
スローモーションのように時が遅く感じました。永井さんはとても驚いた表情をしていて、だけど扉が閉まる直前、くしゃりとしわを寄せて笑いました。
結局、あの歌声が誰のものだったのか、永井さんにも聞こえていたのか、わからないままです。それを確かめる術も、もうありません。
なぜって、これはとても不思議なお話なのです。翌日の朝刊で知ったのですが、永井さんはその日病院で亡くなられていました。しかも、わざわざ訪ねてきてくださったご家族の方にこの話をすると、それは大層驚かれました。彼はもう長いこと病に伏せっていて、あの日も外出などしなかったはずだとおっしゃるのです。
これには僕も驚きました。そんなはずはないと反射的に朝潮さんの方を見ると、彼女はただ窓辺に立って鼻歌を奏でていました。
その時「歌が笑っているね」と永井さんが言っていたことを思い出し、僕はなんだかとても難しい気持ちになりました。悲しいけれど、あたたかい。そんな気持ちに。
僕は言葉を秘めることにしました。そして思ったのです。永井さんとの思い出を悲しいだけのものにしないようにしよう、と。
今は、朝潮さんたちすらいません。だけど僕の記憶の中で、永井さんも彼女たちもたしかに笑顔でいてくれるのです。それでも彼らの顔が曇るような日は、歌をうたって過ごすようになりました。
そう、あの歌を。うろ覚えでも笑顔で僕は歌います。記憶の中の朝潮さんのように上手くはないけれど。