燃える瞳

 いらっしゃいませと、そう言いかけた僕の顔に熱風が吹き付けました。
 お店の中にまで夏を運んできた朝潮さんは、ただいま帰りました、と額の汗を拭います。

 とてもとても蒸し暑い日でした。
 朝潮さんは休憩時間を使って度々街へ出かけているのですが、今日ばかりはいつもより早いご帰還です。
 大潮さんが手渡したハンカチは扇子になったり汗拭きになったりと、朝潮さんの小さな手の中で忙しそうでした。

 僕は彼女たちに冷たい飲み物を用意しながら、先ほどからアブラゼミのように鳴き続けている古いエアコンに目をやります。
 わかってるよ、だけど一所懸命やってもさ、もう若い頃みたいには働けないんだよ。
 戦友のそんな声が聞こえた気がして、僕は彼に一瞬責任を押し付けようとしたことを恥じました。寄る年波に勝てないのはお互い様でしょう。

 そんな僕の様子を不思議そうに見つめる二つの視線を感じ取り、半ば照れ隠しのようにアイスティーを差し出すと、僕は彼女たちにお店の奥で休んでいていいよと伝えました。
 即座に提案を拒否した朝潮さんですが、僕がお店をぐるりと見渡す仕草で促すと、閑古鳥の鳴く店内が彼女を優しく説得してくれたようです。彼女は困ったように微笑んで、そうして大潮さんに片手を引かれていきました。

 さて、そうして取り残された僕は、一応これでも店主ですから、いかに暑さと手持ち無沙汰が揃って誘惑してこようが持ち場を離れるわけにはいきません。
 お互い難儀なものだと言葉なき旧友と勝手になぐさめあいながら、ただ無心にティーカップを磨き続けます。そうして、自分がどれほど独りであることに不慣れになってしまったのか思い知るのでした。

 昔、いじめられているというほど難儀でも、かと言って楽しいと言える学校生活でもない程度の日々を過ごしていた時のことを、どうしてか思い出します。黒峰くんというヒーローがいなかったら、僕は今、喫茶店なんて開いていなかったのかな。そんな感傷に浸って手が止まっているところへ、二人のパタパタとした足音が聞こえてきました。
 予想通りに早く、早すぎるくらい早く戻ってきた朝潮さんたちに何処か安堵してしまう自分がいて。その気持ちが伝わらないよう、もう少しゆっくりしていていいのに、と心にもない言葉をかけました。

「そういうわけにもいきませんから」

 顔を洗ったのでしょうか。幾分すっきりした表情の朝潮さんは店内をもう一度見回すと、さて、と口火を切りました。

「灰島さん、今日のお客さまの入りは何故少ないのでしょう」

 それは、と言いかけて、彼女の真剣な瞳にこれは穏やかではないなと判断しました。だからあえて柔らかい口調を意識して答えたのです。

「今日は特別暑いですから。日中に客足が遠のくのも仕方がないんですよ」

 ですが、と今度は朝潮さんが途中で言葉を飲み込む番でした。バツが悪そうに、だけど決して視線をそらさずに彼女は言うのです。

「ごめんなさい。灰島さんを責めるつもりはないのです。ただ、わたしが本当にこのままで良いのかと最近よく考えてしまって」

「実はさっきも同じ話をしてたんです。休憩時間も街でビラ配りをして。朝潮お姉さんは焦りすぎなんですよって言っても、全然聞いてくれませんし」

 そう言って大潮さんは彼女にしては珍しくプリプリと頬を膨らませています。

 僕はその話を聞いて、すぐに先ほどまで感じていた孤独感に思い至りました。
 独りが寂しいのは、彼女たちと過ごす日々を大切に思っていることの裏返しです。だから、この時間が少しでも長く続けば良いと願っている。それはあえて口にはしない僕の本心でした。
 そして勿論これは僕の意識の外ではありましたが、もしそれが黒峰くんとの約束を果たすことへの足枷になっていたとしたら。少なくともそれを指摘されたら、僕は朝潮さんの目を見て答えられる自信がありません。

「そうだね。約束は守らなくちゃ。いつか、なんて言っていたら黒峰くんに申し訳が立たないよ」

 なんとか絞り出したその言葉に、神妙な様子で頷く朝潮さん。
 そのとなりで手を額に当てて天を仰ぐ大潮さん。……大潮さん?

「二人とも、お互いの瞳を見てなんとも思わないのですか?」

 彼女から唐突に投げかけられたその疑問に、僕は思わず固まってしまいました。
 朝潮さんが視界の端でピクリと震えたことさえ確かとは言えないほどに、僕はいつの間にか彼女から目をそらしていて。後ろめたさでエゴの塊のようになっていた自分に、ようやく直に触れることができたのだと思います。

 彼女の瞳にかすかに揺れる影、それはきっと僕の瞳にも映っている『不安』という名の炎でした。

 お互いに見つめ合って、僕たちは同時に頭をかいて、笑いがこみ上げてくるタイミングまで一緒で。それを見た大潮さんも、むしろ一番大きな声で笑ってくれました。それがどれだけ救いだったか。
 店内に僕ら以外は誰もいないというのに、こうして穏やかで温かい空気が流れるのはこの夏何度目のことでしょう。
 外の蒸し暑さとある意味で対照的なそれは、けれど少しの湿り気を帯びています。きっと、だからこそ離れがたいのです。

「燃える瞳か」

 ひとしきり笑って、僕がなんとなしにそう呟きます。すると笑みを浮かべたままの朝潮さんが、奇妙なほどうろたえたように見えました。
 僕はまた一段と空気が変わったことを察しました。どうかしたのかい、と慌てて尋ねると、彼女はただ一言とともに涙をにじませたのです。

「司令官」

 聞こえたのは、彼女のあらゆる感情が混じったような声でした。愛おしいまでに灰色のそれは、僕が初めて見た彼女の姿でもあります。
 こぼれ落ちる涙のしずくも拭わぬまま、朝潮さんはその大切な言の葉を何度も繰り返して。
 突然のことに動揺して立ち尽くす僕を残し、大潮さんが休憩室まで彼女に付き添っていくのを、ただ目で追うことしかできませんでした。

 そうして最初の休憩よりずっと長く感じた十分後。戻ってきた朝潮さんは開口一番に僕に謝りました。
 僕が、そんなことよりきみは大丈夫なのですか、と問うも、朝潮さんは予想通りに大丈夫ですとしか言ってくれません。
 たまらず横の大潮さんに助けを求めてみても、彼女さえ首を横に振るばかり……。いつものように空元気でも、大丈夫、だなんて口にしないのです。

 これはただごとではないと、さすがの僕でもわかりました。
 今ばかりはお客さまを迎えられないと、クローズドの札をかけにお店の外に出ました。老いた瞳に昼過ぎの熱気と日差しが染みて、こんな時だというのに、僕まで泣きそうになります。

 そうして、お店を閉めた僕が戻ってくるのを待っていてくれたかのように、朝潮さんがこんな昔話を聞かせてくれました。

 わたしが司令官のもとへ配属された時、わたしはまだこの身体と心を持て余していました。
 立ち止まったら大きな波にさらわれてしまうような気がして、その感情の名も知らぬまま、闇雲にただ駆けて。

 そんなわたしを諌めてくれたのが、司令官の「きみの瞳は燃えているようだ」という言葉だったのです。
 はじめは意図が掴めませんでした。瞳、がどこを意味するのかさえわからなかったのです。

 どういうことですか、とわたしは不躾に尋ねました。
 司令官は静かに腰を落としてわたしに視線を合わせてくれました。穏やかな瞳、でした。

「使命感、責任感、雪辱の念、あるいは不安感、私の察せない感情。今きみを動かしている燃料は、きみにとって大切なものかもしれない。そこに口を出すつもりはないけれど、このままだときみはきみの感情に燃やし尽くされてしまう。私はそれを見たくない」

 言われていることの意味がまったく理解できなくて、わたしは司令官をずいぶんと困らせたと思います。それに、お恥ずかしい限りではありますが、戦闘に意欲的でない司令官のことを臆病だと、そう呼んでしまったこともあります。
 でも司令官は怒るでも罰するでもなく、ただ何度でもわたしの瞳を覗き込んで言うのです。「また燃えてる」と。少年のような無垢な表情で、そうおっしゃるのです。
 そうするといつもわたしは、なんとも形容できない……今でさえ一言では言い表せない気持ちが胸に渦巻いて、止まれるのです。司令官の言葉はわたしの錨でした。

 そうした日々を繰り返して、あれはいつの日だったでしょう。味方の艦隊が撃破され、何人亡くなったか、何隻沈んだかもしれない中、激しく燃えるわたしにいつものように司令官が制止をかけたのです。
 わたしは罰せられるのを覚悟で進言しました。報復を、味方の仇を。ここで何もしないのならばわたしがわたしで生まれ直した意味がないと。

「朝潮、守るため以外でその武力を振るうことを、私は決して許可しない」

 それは初めて見る必死の形相で、強い口調で。
 わたしは反発するように理不尽だと叫んだのです。
 あいつらを生かして帰せば敵は増長する。それに、放置すればまた味方を沈めるに決まっているのです。これは立派な守るための戦いだ、と。

 司令官はお辛そうにわたしを見ていました。決して目は逸らされませんでしたが、わたしはその様子を見て、内心では司令官に忠言が通ったと、誇らしささえ抱いていたのです。
 それでも司令官は、もう一度はっきりと「出撃は許可しない」と命令なさいました。

 そうして、悔し涙に暮れるわたしにずっと付いていてくださいました。

「きみの時代はそうだったのだろう。だから、きみが間違っているわけではない」

 その言葉を素直に受け止めることがどうしてもできなかったのです。

 わたしは敵はもちろんのこと、司令官のことすら憎く思っていました。でも今ならより正確にあの時の自分の気持ちを汲み取れる気がします。わたしは自分の存在理由が揺らぐようで怖かったのです。今まで無視してきた炎が、この身を焼いていくのを知りました。
 このまま司令官のもとに居れば、わたしは”朝潮”ではなくなってしまうかもしれない。けれど司令官に逆らって、わたしはどこへ行けると言うのでしょうか。それは”朝潮”として正しいのでしょうか。わたしは、わからなくなりました。

「専守防衛、それが自衛隊の在り方だ。私達は暴力を決して容認しない。私達の武力は国民を守るためだけに行使が許される。そして何よりも、そんな建前を本気で信じていなければ私は今ここにいないのだと、それだけは断言できるんだよ」

 自分自身にも言い聞かせるように話す司令官のお姿を、わたしの誇りだと思えるまでに……それからもずいぶんと時間がかかりました。

 海を駆けまわり、深海棲艦を沈め続けてやりたい。最後の一隻までこの手で駆逐してやりたい。味方の消えない無念を、あの時の癒えることのない傷を、あいつらにも負わせてやりたい。それは今でも忘れがたいわたしの感情です。そしてわたしはその気持ちを今になっても完全に否定することができません。
 おそらくは司令官がおっしゃったように、これは善悪や正誤の話ではないのです。だから答えなんてなく、それでも生きる限り思考し続けるべきものなのです。

「朝潮、できればきみにも今ここに居る理由を見つけてほしい。それが例えどんなものであっても、私は探し続けたきみの姿勢に敬意を表すよ。だから、過去を燃料に進むのは、一旦やめようか」

 そのお言葉を胸に抱いて、これまで生きてきました。
 ずっと長い間、今だって、わたしは”朝潮”を探し続けています。争いが終わろうとも、深海棲艦が消えようとも、みんなが、ひとりまたひとりと帰っていっても、それでもいつか必ず、それが見つかると信じているからです。

 ですが、本当は、司令官の穏やかな瞳をまっすぐに見据えて報告したかった。朝潮は……わたしは、やっと”わたし”を見つけました、と。

 争いがなくなって嬉しいのです。深海棲艦もわたし達も、みんないなくなって良いのです。人々が無事なら、安寧を取り戻せたのなら、わたし自身が消えたって一向に構いません。だけど司令官がいないのは駄目です。駄目なんです。
 わたしは、きっとまた過去を燃料にしている。司令官との約束だけが、わたしにわたしを探し続ける理由をくれる。わたしの答えはいつかきっと見つかる。
 
 でも、そのとき誰に報告したら良いのですか。いつかって、いつですか。

 ずっと不安でした。すべてが揺れて、確かな錨はもう何処にも無くて。灰島さんを探す途上でも何度も挫けそうになりました。
 大潮にはいっぱい支えてもらって、満潮はきっとすべてわかった上でわたしのわがままに付き合ってくれて、大切な荒潮の心をわたしは利用して、そうしてやっと立っていられたのです。

 灰島さんに初めてお会いした時、わたしは大言壮語を並べてあなたを鼓舞しました。けれどあれは全部願いです。
 応援ではなくただの願望です。わたしはきっと灰島さんが思われるほど立派ではない。過去にすがるだけの亡霊です。

 泣きじゃくりながら自らを卑下するその少女は、たしかに僕が勝手に抱いていた”朝潮さんの姿”でも、世間一般で言う”立派な姿”でもありませんでした。
 彼女の辿ってきた道は、僕なんかが今の話だけで推し量れるような単純なものではないのでしょう。安易な言葉も、軽率な行動も無意味です。僕はどうしようかと考えて、正解の見つからない思考の輪廻の先に、ふと黒峰くんとの思い出が鮮明に蘇ってきました。

 その姿はまだあどけなさの残る少年でした。
 僕は勝手に彼をヒーローのように考えていたけれど、特に朝潮さん達と出会ってその想いは膨れ上がったけれど、彼はただ優しいだけの男だったはずです。それを思い出しました。
 運動もでき学業の成績も良く、友人も多い、僕と正反対な彼。僕が独り寂しそうにしているのを聞こえる距離で笑った同級生に、何も注意しなかった彼。いつも一人っきりの昼食時間に、二人で食べようと誘ってくれた彼。夢を語り合いながら、きっと僕を励ましていた彼。

 黒峰くんはいつも完全無欠なんかじゃありませんでした。優しいだけの男です。特別勇気があるわけでも、正義感にあふれているわけでもない、ただの僕の友人です。
 美化も劣化もしていない、それが間違いようのない、やっと見つけた僕の中の黒峰海斗でした。
 
 その瞬間、本当の実感が大波のように押し寄せてきたのです。ついこの前、彼が亡くなったと聞かされ、初めは理解が追いつかず、次第に良い思い出ばかりが胸を圧迫して狼狽して。しかし僕は何一つわかっていなかった。

 そうだ。黒峰くんは、僕の一番の友人だった彼は。

「もう、いないのか……」

 震える唇から今にも消えそうな言の葉が漏れ出して、僕はこの歳になって初めて親友の喪失を知りました。覚悟の時間が用意されていた親の死とは、また違う鈍痛が胸を殴りに来たのです。
 僕は耐えられませんでした。年長者としての体裁も、朝潮さん達への気遣いも、大人として身につけた分厚い自尊心さえ投げ捨てて、僕は嗚咽とともに涙をとめどなく流しました。

 朝潮さんも隣で泣いていたのか、それすら定かではありません。
 僕は僕だけの理由で泣く、昔から変わらない、自分本位な男でした。

 ただそれがどうしてか、彼女たちとの日々の終わりに朝潮さんが出した”答え”に、少なくない影響を与えていたのだと聞かされて、僕はこの心をどう整理すればいいのか、あれからずっと考えています。

 朝潮さん達のいない世界で、誰にこの気持ちを話そうかと悩みながら。

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2023年3月13日