月下の君

 七月の夜風がそっと僕の頬を撫でていきました。

 日中の暑さは何処へやら、真っ暗な空に煌々と輝く月はなんとも涼しげです。辺りはひんやりとした静寂に包まれています。芭蕉も夏の月を見て読もうものです。
 はて、そういえばどんな句だったかなと僕が頭を捻っていると、ちょうど海岸側の道から大きな荷物を持った男の人が駆けてきました。僕はすぐにそれがカメラマンの辻井さんだとわかり、こちらの位置を知らせるために大きく手を振ります。

 それから程なくして彼が完全に視界に入りました。

「やあ、お待たせしてすみません」

 息を整えながら彼はそう挨拶すると、同時にきょろきょろと周りを確認します。

「ここよ」

 それに応えるように凛とした少女の声が発せられました。ちょうど僕の背中に隠れるようにして、満潮さんが立っていました。

 満潮さんは小さく深呼吸すると、意を決したように辻井さんの前に歩み出ます。その顔は緊張しているようにも、何にも興味がないようにも見えました。
 その証拠に、辻井さんが何度も彼女にお辞儀をして握手を求めている間も、僕がそれを少し心配して見守っている間も、満潮さんは変わることなくただ真っ直ぐに月を見上げています。心ここに在らずといった様子でした。

 そうして、僕の懸念もよそに月下の撮影会が始まりました。
 満潮さんは辻井さんの指示に従って、振り向いたり、俯いたり、見上げたりしました。それが物憂げな彼女の表情と相まって、息をのむほど美しいのです。月をバックに、満潮さんは踊るように、あるいは歌うように次々とポーズをとりました。そのすべてが儚く、また寂しげに感じられて、僕の心はどうしようもなくかき乱されてしまいます。

 辻井さんが夢中でシャッターを切る音だけが響く中、ふと、僕と彼女の目が合った気がしました。その瞬間、彼女がうっすら微笑んでいたように思えて。

 その理由も知らぬまま、気がつけば僕はただただ祈っていました。

 ※

 さて、事の発端は今日のお昼頃に遡ります。

 最近にしては珍しくお客さまも少なく、僕はカウンター席に腰掛けた男性と話し込んでいました。そう、それが辻井さん。彼はとてもよく話す人で、偶然日除けに入ったこのお店が気に入ったのだと朗らかに笑っていらっしゃいました。
 僕としても自慢のお店をお褒めいただいて悪い気はしません。すぐに意気投合した僕たちはお互いについていろいろと語り合いました。彼がカメラマンだということも、その中で聞いたのです。

「月が好きなんです」

 彼は少し照れたようにそうも言いました。そうして自分が撮った月の写真が載っている雑誌を、とても大事そうに鞄から取り出して見せてくれたのです。

 僕は一瞬でその写真に魅入られました。その間も辻井さんはたくさんのことを話してくれたのですが、こと月に関しては、好き、の一言しか言及しないのです。その理由も経緯も何もかもを、一枚の写真に閉じ込めたと、まさにそう言わんばかりに彼は芸術家でした。

 それなのに僕ときたら、ただ「美しい」としか口にすることができません。他に形容する言葉もないほどにその月は純然たる美だと感じて、必要以上の装飾は僕の感情の本質から離れる気がしたのです。
 それでも、適切な言い回しが思い浮かばないことに対して僕が己を恥じていると、彼は満足げに頷いて言いました。あなたにお見せできて良かった、と。

 ちょうどその時お昼休憩に出ていた満潮さんが帰ってきました。なにやら盛り上がっているところに水を差したとでも思ったのでしょうか。僕たち二人の視線を同時に浴びた彼女は、ぺこりと一礼すると、そそくさとお店の奥に引っ込んでしまいました。

 僕も口下手な方だと自覚があるものの、ここ数日の様子を見るに、満潮さんもなかなか不器用な性格なんだなと、僕はちょっとした親近感を覚えています。今なんかはまさにそうで、別に逃げるように立ち去る場面ではありません。彼女は立派なうちの従業員なのですから、堂々としていれば良いのです。
 
 まあこの親しみは僕が勝手に抱いているだけで、満潮さん自身は四姉妹の中で唯一僕とあまり話さないのですけれど。
 そんなことを考えていると、先ほどから辻井さんが一言も発していないことに気がつきました。それどころか彼は真っ直ぐに玄関口を見つめて微動だにしません。
 僕が声をお掛けしようかどうか逡巡していると、辻井さんは急に僕の方に向き直って「彼女はここの店員さんですか」と問いました。言葉こそは丁寧そのものですが、目は赤く血走っています。
 そして、突然のことにすっかり気圧された僕に向かって、彼は情熱の赴くままにこんな話をし始めたのです。

 
 私は子供の頃から月が大好きで、それでカメラマンになったのです。誰かにこの気持ちをわかってもらいたいだとか、月の良さをもっと広めたいだとか、そんな高尚な想いはどこにもありませんでした。私は自分が月を美しいと思ったその一瞬を切り取って、永遠に残しておきたい。ただそれだけの理由でこの職業を選んだんです。
 それこそ初めは天職だと思いましたよ。幸運にも雑誌に載せていただけたり、月専門のカメラマンとして私自身をクローズアップしていただいたこともあります。けど私は、良くないことに変わりませんでした。
 いえ、変われなかったの方が正しい言い方でしょうね。ただ好きに月を撮り続けて……そんな自分に酔っていたところも否定はしません。だけど私は純粋に月以外を撮る気になれなかった。どうしようもなく子供のままだったんです。
 そんな私に周囲の人々は次第に飽きていきました。あるいは頑固なところが扱いづらかったのでしょう。何度も月以外を撮ってみないか、とか、月と人を撮らないか、と打診していただいたにも関わらず、私はそれらを雑音として切り捨てました。大好きな月と一緒に写したいと思える人間など、この世のどこにも存在しないと思っていたのです。
 そうして私に仕事の話が来なくなって、もうずいぶん経ちます。今はアルバイトをして食い繋いでいますが、最近そちらの方で正社員のお話をいただいて、私の心は決まっていました。写真は趣味でだって撮れるのですから。そう、思っていたのです。

 そこで一度話を切った辻井さんは、瞳を輝かせて僕を真っ直ぐに見つめました。

「たった今、ここであの少女と出会わなければ。私は初めて月と一緒に誰かを……あの子を撮りたいと思いました。彼女ならば月と比べても遜色無い……いえ、お互いにお互いを引き立てあい、必ず素晴らしい作品になると確信したのです」

 次の言葉は必要ないと思えるほど、彼の覚悟は決まっていました。そういう類の瞳です。おそらく誰もが子供の頃持っていて、いつのまにか失くしてしまった……。
 僕は目の前の少年の純粋な願いを応援したいと思いました。しかし同時に満潮さんの気持ちを尊重すべきだとも、大人である僕にはわかっていました。

 おそらく、いえ確実に彼女はこの話を受けないでしょう。短い付き合いでもそのくらいのことは察せるようになっていました。

 だって彼女はきっと、このお店で働くことすら本意ではないのでしょうから。

「申し訳ありませんが彼女はまだ未成年ですし、僕はアルバイトで預かっている身でしかありませんから、決められません」

 そうしてなおも食い下がろうとする辻井さんに、諭すように肩に手を置いてはっきりと言いました。

「それに彼女はとても恥ずかしがり屋なんです。僕には従業員を守る義務があります」

 辻井さんの瞳はすぐに捨てられた子犬のそれのように濁りました。ですが彼も既に現実を知った大人です。熱に侵されておそらく久しぶりに表に出たであろう少年の心は、落ち着くのにそう時間はかかりませんでした。

「そう……ですよね。私としたことが恥ずかしい。無理を言ってすみません」

 安心した僕は彼の肩から手を離し、こちらも非礼を詫びました。まさしく大人の対応だと自負しています。これでこの場は収まるのだと、そう信じていました。

 ひとりの少女の思惑が介入するまでは。

「誰が恥ずかしがり屋ですって?」

 そう言ってお店の奥から姿を現した満潮さんは、お店の制服の上からエプロンをしていました。
 彼女は僕が制止する間もなくカウンター席に近づくと、ひょいと机の上から雑誌を拾い上げ、じっとそれを見つめています。

 そうして長い沈黙の後、彼女は一言「いいわよ」と呟いたのです。

 思わず問い返したのは僕だけではありません。辻井さんも驚いた表情で固まっています。

 しかしそんな我々には目もくれず、満潮さんは雑誌に視線を落としたまま言いました。

「あなたの夢にわたしも乗ってあげると言っているの。……家族はわたしが必ず説得するわ」

「ほ、本当かい?」

「ただし、条件が二つある」

 満潮さんは丁寧に雑誌を辻井さんにお返しすると、顔色ひとつ変えずに淡々とした口調で“それ”を告げました。

 僕はと言えば、あまりに予想外の展開で一切口を挟むことができませんでした。……本当に情けないお話です。

 ※

 そうして、なんだか気が気でないうちにお店の営業時間は終わり、僕たちは辻井さんと約束した場所へと向かっていました。
 歩いて二十分ほどの道のりは、無言のままもう半分を超えたでしょうか。帰宅途中の子どもたちの笑い声、カラスのどこか寂しげな鳴き声。様々な音を抱いて街は夜へと沈んでいきます。
 
 まるで僕に話しかけられるのを嫌うように、満潮さんは毅然とした足取りで前を進んでいきました。僕はこのままで良いはずがないと知りながら、その態度を言い訳にして何も言い出せません。

 満潮さんが辻井さんに出した条件は二つ。

 一つは自分の名前を匿名にすること。
 二つ目は写真が売れたら必ずこの店の宣伝をしてもらうことです。

 それを聞いた時、僕はすぐに止めるべきでした。それをできなかったのは、今もこうして沈黙を破れないのは、僕の弱さに他なりません。満潮さんを知ることを怠った僕の罪なのです。
 僕には彼女の気持ちがわかりません。前を歩く彼女の姿は殊更にぼやけて見えます。
 “そういう子”なんだと決めつけて交流を求めなかった代償の重たさに、この時になってようやく気がついたのです。

 僕は満潮さんとの距離を走って埋めました。彼女は変わらぬ歩幅で、こちらを振り向きもしません。それでも、もう怯むことはやめました。

「満潮さん、やっぱり駄目です。辻井さんには僕から謝罪しておきますから、ですから」

「どうして?」

 彼女はやはり感情の乗らない声でそう返したのみでした。
 僕はもう一度走って、今度は彼女の前に立ち塞がります。そうして、真っ向から彼女の瞳を見て、どうして今まで気がつけなかったのだろうと、強く後悔しました。いつも姉妹の前にいる時の彼女は、こんなに無表情でも、無機質な話し方もしていなかったではありませんか。

「きみが無理をする必要はありません」

 僕はあえて強い口調で言いました。

「帰りましょう。朝潮さんたちに心配をかけてはいけませんよ」

「自惚れないで」

 僕の言葉に被せるように、彼女はそう吐き捨てました。僕の視線を避けるように、満潮さんは顔を背けます。

「あなたが、まるでわたしをわかったように言わないで。それに勘違いしているのかもしれないけれど、わたしはあなたのためにこの話を受けたわけじゃない」

「朝潮さんたち、それに黒峰くんのためですか」

 ぴくりと彼女の眉が動いたのがわかりました。
 辺りはずいぶん暗くなったにも関わらず、未だ朧げな月明かりが彼女の表情を優しく照らし出してくれています。

 自分の顔をまじまじと見られていることに気がついた満潮さんは、急に拗ねた子どものような表情になり、僕の隣をすり抜けようとしました。

「満潮さん。話してくれないのでは何もわかりません」

 その瞬間、ぴたっと彼女の足音がやみました。
 僕はもう一度彼女の背中に向けて呼びかけます。

「でもそれは僕も同じ。白状すると、僕はきみのことが怖かったのです。だから今まで避けてきました。不誠実だったことを詫びます。ごめんなさい」

 薄暗がりの中、彼女の小さな背中が震えていました。
 そこにある感情を、僕はまだまだ上手に汲み取れません。でも努力だけはもう諦めないと、そう心に誓いました。

「満潮さん、聞かせてください。あなたの本当の気持ちを」

「……わたしは」

 そうして振り返った満潮さんの表情は、もう、作りものではありませんでした。

 ※

 結局満潮さんは最後の最後まで写真撮影を受けた理由を話してはくれませんでした。

 ただ、それ以降彼女は少しずつ僕に心を開いてくれたのだと、今度こそ思い上がりでなければ、そう信じたい自分がいます。
 辻井さんの撮った月と満潮さんの写真が雑誌に掲載されることになり、その雑誌が刊行されると聞いた時の彼女の表情が、とても嬉しそうだったこと。そう感じ取れる自分になっていたこと。
 全てが今となってはあの煌めいた夏の思い出の一雫だと、誇りと親愛を持って断言できるのです。

 ひとつ、満潮さんがその雑誌を手に取ることができなかったことだけが心残りと言えばそうです。ただ、それ以外はもう何も心配していません。
 あの時僕が祈ったように。あの時彼女がばつが悪そうにそう教えてくれたように。きっと僕の知らないどこか遠くの港で彼女は彼女のために生きているのだと。

 夏の月を見るたびに、僕はそう思うのです。

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2022年12月24日