咲かない花

 そのお客様は、初夏の日差しがまぶしいとある日の昼頃に来店なさいました。大潮さんのような明るい空色の髪に、するどい眼差し。いかにも利発そうなお嬢さんでした。
 彼女は植木鉢を両手に大切そうに抱えていました。まっすぐに蔓が伸びているそれは、遠目に朝顔に見えました。ただ、つぼみは未だ閉じたまま、寂しそうに下を向いていたのが印象的でした。
 そのお客様はカウンターに鉢を乗せると、コーヒーを一杯注文されました。

 僕はその少女のことがなんだか気になってしまい、コーヒーを淹れながらちらちらと不躾な視線を送ってしまいました。彼女はそれに気がついているのかいないのか、しきりに店内を見回しています。
 その様子が初めてこのお店にやってきた朝潮さんにあまりに似ていたものだから、僕はなんとなく察してしまいました。

「朝潮さんたちに何かご用でしょうか」

 淹れたてのコーヒーを彼女の前に置きながら、そっと探りを入れてみます。
 少女は初め、目を大きく見開いて虚を突かれたようでしたが、すぐに口の端に笑みを浮かべると、なんだか楽しそうに言いました。

「へえ。わかるのね」

「半信半疑といったところでしたが。あなたが彼女たちにとてもよく似ていたものですから」

「そう。それで、その四人は今どこに?」

「今日は朝潮さんと大潮さんはお休みです。満潮さんと荒潮さんは今ちょうどお昼休憩で店を留守にしていますが、もうすぐ戻られると思いますよ」

 僕がそうお教えすると、彼女はコーヒーカップに口をつけながら、また店内の様子を窺っているようでした。

 この日は夏休みの学生グループが二組、会社勤めのサラリーマン風の男性が一人、店内にいらっしゃいました。どのお客様も少女と僕のいるカウンター席からは離れたテーブル席に座ってらっしゃいます。

 そのお客様たちを少女はしきりに観察していました。やがて空になったコーヒーカップを置くと、彼女はこう切り出しました。

「なかなか良い雰囲気のお店じゃない。客の入りも、まあ合格ね」

「恐れ入ります」

 僕は彼女の物怖じしない口調に少しばかり驚きましたが、いつもの笑顔で対応しました。

 彼女はそんな僕の方を、おそらくは今日初めて、まっすぐに見つめ返してきました。
 その瞳はとても年頃の少女のものとは思えない鋭さを帯びていて、僕は思わず心臓がきゅっと縮んでしまったほどです。

 彼女は懐からコーヒーの代金ちょうどのお金を取り出すと、それをカウンター席に置いて立ち上がりました。
 そしてぎこちなく固まっている僕に向けてこう言ったのです。

「霞が最後のお別れに来たと伝えて。それからその朝顔は餞別よ。……ここなら、その子もまた元気に花を咲かすかもしれない」

「あ、お待ちを!」

 最後、という言葉がどうしても気になってしまい、僕は彼女を呼び止めました。もう数分もすれば満潮さんたちは戻ってくるでしょう。うまくすれば朝潮さんたちにだって会えるはずです。

 ところが彼女は僕の声も聞こえていないようにまっすぐ出口の扉へ歩いていきます。

 僕は慌ててカウンターから出ようとして、エプロンの裾が何かに引っかかってつまずいてしまいました。そうして顔を上げると、そこにはもう誰もいなかったのです。

「マスター、大丈夫ですか?」

 優しい男子学生にそう声をかけてもらいましたが、僕は彼らにも霞さんが見えていたのか、怖くなって聞くことができませんでした。
 振り返ると、確かにそこにあったはずの空のコーヒーカップもお代も、そして朝顔の鉢も消えていました。僕は狸か狐に化かされたような心持ちで、目を白黒させたものです。

 だけど、彼女はちゃんとプレゼントを残していきました。ちょうどその時、裏口から満潮さんと荒潮さんが帰ってきて、店の裏に朝顔の鉢を置いたのは僕かと尋ねてきたのです。

 僕は返事もそこそこに、裏口の戸を開けて外へ飛び出しました。そしてお店の壁沿いに、あの朝顔がつぼみをしょんぼり垂らして植木鉢に収まっているのを見て、腰を抜かしたのです。

 

 その日の夜、閉店後に朝潮さんと大潮さんにも来てもらって話をしました。僕が要点をかいつまんでお昼の出来事を話すと、場にはしんみりとした空気が流れました。

 その静寂を率先して破ったのは、やはり朝潮さんでした。

「そうですか。霞も帰る決意ができたのですね」

 寂しそうに、だけどどこか安堵した様子でそうため息をつきました。

「きみたちの言う帰るというのは……その、どこへ? きみたちもいずれ帰ってしまうのかい?」

 僕はずっと気になっていて、だけど怖くて聞けなかった疑問を口にしました。僕にとってこの姉妹と過ごす時間はそれなりに楽しいものになっていましたし、美人姉妹の噂を聞きつけてかお客さんもここ最近増えていましたから、彼女たちがいつかふいにいなくなってしまうことが、とても恐ろしいことに思えたのです。

 満潮さんが僕から視線を逸らすと「いつかは……ね」と口にしました。僕は息をのんでその先の言葉を待ちました。

「あらー。満潮ちゃん、寂しいなら残ってもいいのよ。荒潮がついててあげる」

「バッ……そんなのじゃないわよ、もう」

「そうですよ。帰るときはみんな一緒です。そう決めたじゃないですか」

 ところが荒潮さんが茶化しながら満潮さんに抱きついたものですから、僕の質問はなんだかなかったかのようになってしまいました。二人へ向けた大潮さんの言葉が僕をより不安にさせただけです。

 心がかき乱されて、僕はいつの間にか寂しい気持ちになっていました。彼女たちとの間にどうしようもない距離を感じたのです。同じ時間を生きているはずなのに、じゃれあう三人の姿は悠久の時を経た憧憬のように手を伸ばしても届かない。そんな気がしました。

 その時です。右手に柔らかなぬくもりを感じて、僕はそちらをゆっくり振り向きました。
 朝潮さんがただ静かに僕の手を握ってくれていました。僕と目が合うと恥ずかしそうに下を向いてしまいましたが、その年頃の乙女の仕草に僕はいくらかなぐさめられたのです。

 彼女たちとはとおい約束で結ばれている。僕はそのことを思い出していました。
 あの約束が叶うまでは彼女たちは急にはいなくならない。それを信じることにしたのです。

「霞は、わたしたちの一番下の妹なんです」

 僕の心を読んだかのようなタイミングで、朝潮さんは手を放してそう呟きました。

「勇気も知恵もあって、強い子でした。黒峰司令官の信頼も厚かったのですよ」

「そうか。自慢の妹だったのだね」

 僕がそう言うと朝潮さんはめったに見せないような気の抜けた顔で笑いました。その喜びようがなによりの肯定でした。

「灰島さん。霞の遺したあの朝顔をここに置いてもよろしいでしょうか? 世話はわたしたちがします。ですから……」

 断る理由なんてありませんでした。僕は店の裏にひっそりと置かれたままの鉢を正面玄関の方へ移動させました。こちらの方がずっと日当たりが良いのです。
 季節はすでに夏真っ盛り。朝顔の開花時期には遅すぎるくらいですが、心を込めて世話をすればきっと間もなく花が咲くだろう。このときは確かにそう思っていたのです。

 

 ところが、いくら待てども花が開くことはありませんでした。
 もちろん毎日欠かさず水をやって、お日様の光に当てていたにも関わらずです。

 そうして幾日か経ったある日、朝潮さんが不思議なことを言いました。ちょうど僕が「今日も咲いていないね」と残念がった直後のことです。

「きっと、この子は過去に閉じこもっているのね」

 誰に言うでもなく、独り言のようにつぶやいたその言葉が、一日中僕の耳に焼き付いて離れませんでした。
 聞き返せばよかったのかもしれません。ですがその直後にお客様からオーダーが入って、僕はその対応に追われてしまったので、すっかり聞くタイミングを逸してしまいました。

 だからでしょうか。その日の夜、僕はこんな夢を見たのです。

 

 僕は軍港のような場所に一人で立っていました。

 なぜ軍港と思ったかといえば、かつて毎日のようにテレビでその姿を見ていた護衛艦がずらりと並んでいたためです。屈強な自衛官と思しき人たちも大勢行きかっていて、みんなが通りすがりに僕に敬礼をしていきました。
 僕はそのたびに敬礼を返し、相手の名前を呼び、時に励ましました。彼らはみんな気の良い人たちで、そんな僕のことを『提督』と呼んで慕ってくれました。
 その名で呼ばれると、僕はこそばゆいような、だけど誇らしい、そんな気持ちになるのです。そして、周囲に比べてひと際小さな埠頭で『彼女たち』を待ち続けました。

 やがて水平線上に小さな点が六つ見えました。僕の胸が高鳴ります。何度も何度も数を確認しているうちに、それらは点から人影となり、ついには人間の少女のかたちだとわかりました。
 彼女たちは僕をみつけると、各々に手を振ったり、叫んだりしました。その表情はいずれも歓喜と安堵に満ちていて、僕の方こそほっと安心したものです。

 いよいよ桟橋から彼女たちが上がってくると、彼女たちは口々に『ただいま、提督』と僕に向かって言いました。僕はそんな彼女たちを労い、称えます。帰ってきてくれたことに感謝しながら、中にはひどく傷ついた子に罪悪感を覚えながら、僕はひとりひとりに向き合い、声をかけました。

 そうしてみんなで陸地の大きな建物へと歩き出しました。僕たちはそこを『鎮守府』と呼んでいて、我が家のように愛おしく思っていました。

 宿舎の前を通るときに、何人かが突然駆けだしました。残されたあと何人かと僕も彼女たちの後をゆっくり追います。その先には宿舎の壁に立てかけられた何種類もの花々があることを僕は知っていました。

 彼女たちは疲れているでしょうに、せっせと花々の世話を始めます。水をやり、声をかけ、そうしてみんなが花々の咲き乱れている様子に見とれていました。
 僕もそのひとりです。とりわけ青い花をつけた朝顔が僕のお気に入りでした。その朝顔は気品があって、気高く美しい花を咲かせています。どんなことがあっても折れずに強く咲く意志を感じて、僕はその花に慰められていたのでしょう。

 ふと、その花を見つめていたひとりと目があいました。黒く艶やかな髪を潮風になびかせながら、彼女は僕に向けて笑いました。

「朝潮さん」

 そう口にしたのが夢の中だったか、現実だったか、僕にはもう思い出せませんでした。

 

 翌朝、お店を開けると玄関に飾っていたあの朝顔が枯れているのに気がつきました。

 朝潮さんたちはとても寂しそうに枯れた朝顔を見つめていました。いつも元気な大潮さんの瞳に涙がにじんでいるのを見て、僕も心が痛みました。
 この花が彼女たちにとってどれほど大切だったか。どれだけの思い出が詰まっているのか……それを僕は知っているのです。いえ、夢の中の出来事ですから、現実とは限らないのですが、少なくともその時の僕にとってそれらの記憶は真実でした。

「この朝顔はわたしのお気に入りでした」

 朝潮さんが愛おしそうに枯れた茎を撫でながら静かにそう語りました。

「この花を見ていると、わたしもしっかりしなきゃって、そう思えたのです。本当に気高くて立派な花を咲かせていたのですよ」

 僕は知らず知らずのうちに頷いて、彼女の肩に手を置いていました。

「ああ、美しい花だったね」

 慰めるわけでも、適当に共感しているふりをしていたわけでもありません。心の底から浮かんでくるあの光景と、その言葉を僕はとめることができませんでした。
 朝潮さんがはっとしたように僕の方を振り向きました。困惑したような表情は一瞬で、次の瞬間、彼女は笑っていました。

 気高く美しい、まさにあの花のような笑顔でした。

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2022年2月17日