人魚の恋

 その日は朝から強い雨と風が吹き荒れていて、最近は順調だった客足もさすがに遠のいていました。
 どうやら大型の台風が近づいているらしく、今日はもうお店を閉めて大潮さんと満潮さんを帰した方が良さそうだなと、僕がそう考えていた時です。一人のお客さまが駆け込むようにして来店なさいました。

 すぐに大潮さんが近づいていって、ずぶ濡れのレインコートを預かります。
 同時に満潮さんが差し出したタオルを受け取って、お客さまは彼女たちに礼を言いつつ、僕の方へ歩いてきました。

「やあマスター。久しぶり。いや、外はひどい雨だよ。ちょっと散歩に出たつもりがこの通りさ」

 お客さまはジャージにパンダ模様に染み付いた水分を拭き取りながら、カウンター席へ腰掛けます。
 その気さくな雰囲気と、まだお若いでしょうに着飾らない服装、そして手入れされていない髪形を見て、僕もそのお客さまが常連さんの一人だったとようやく気がつきました。

「お久しぶりです。大変だったでしょう。どうやら台風が来ているようですから」

「台風だって? そりゃ参った。たまにはニュースも見ないと駄目だね」

 お客さまは手を叩いて笑っています。どうやら彼女の変わり者っぷりもお変わりないようです。

 彼女は村岡さんといって、絵本作家をされていると聞いていました。常連と言っても、年に数度ふらっと現れては突拍子もないお話をして帰られていく方です。ただそれが十年ちかくも続くとなれば、常連さんと呼んで差し支えないでしょう。

「ところでマスター。彼女たちは何者だい?」

 ずいっと顔を近づけて村岡さんがささやきました。
 僕は彼女のその言いように、瞬間、大潮さんたちが艦娘であることを見抜かれたのかと硬直してしまいました。
 しかし彼女のこうした芝居がかった物言いは以前からのことです。すぐにそれを思い出して、笑顔を作りながら単にアルバイトの子たちだと説明しました。

「ふーん。さすがのマスターも人恋しい年齢に差し掛かったといったところかな」

 村岡さんはあごに手をやって、しみじみと呟きます。
 僕の方がずっと歳上のはずなんだけどな、とは思っても口にしませんでした。代わりに素直に認めておきます。
 実際、朝潮さんたち四人と出会ってからは毎日が楽しくて仕方ありませんでしたから。僕も一人にずいぶんと不慣れになっていました。

「人は変わるもんだねえ。あ、ところで」

 彼女が再び身を乗り出し、その顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶのを見て、僕は身構えました。それは彼女が突拍子もなく面白いお話を聞かせてくれるときの合図です。

「人魚姫の恋の結末を知っているかい?」

 そら来たぞ、と僕は少し嬉しくなりました。
 しかし人魚姫とはまた話が飛躍したものです。ロケットで別の星に着地したような彼女の話の運び方には何年経っても慣れません。

 そこに大潮さんが話に参戦してきました。他にお客さまもいらっしゃいませんから、いつの間にか彼女を中心に輪ができています。満潮さんさえ遠くで聞き耳を立てているようでした。

「わたし知っていますよ! 人間の王子様に恋した人魚姫は、悪い魔女に騙されるんですけど、えーと、最後は人間になって結ばれるんです!」

「……あれ? 最後は泡になって消えてしまうんじゃなかったかしら」

「ええー!?」

 満潮さんが大潮さんの答えを訂正すると、大潮さんからは不服そうな悲鳴があがりました。しまったという表情を浮かべる満潮さんでしたが、一度話に加われば抜け出すのは困難です。諦めてこちらへ寄ってくると、大潮さんから猛抗議を受けていました。

「そんなのひどいです! 幸せになれる方が良いに決まってます!」

「いや、わたしたちが決めることじゃないでしょ」

「でもお!」

 その時、盛大に息を吹き出す音が目の前から聞こえました。
 見れば村岡さんがカウンターに突っ伏してお腹を抱えています。あわや姉妹喧嘩になりそうなのを止めたのは僕ではなく、村岡さんの快活な笑い声でした。

「どちらも間違っていないよ。人間になるのはディズニー、泡となって消えてしまうのはアンデルセンの童話さ」

 さんざん笑って、目に涙を溜めた村岡さんはそう補足します。
 そして顔を真っ赤にしている満潮さんの方を向いてこうも言いました。

「いや久しぶりに笑った。若い子の掛け合いは勢いがあっていいね」

 村岡さんは、不本意そうに「どうも」と呟く満潮さんを見て、もう一度声を出して笑いました。

「いやあ愉快だ。やっぱりたまには外に出て経験を積まないとね。部屋にこもっていては面白い話というのは生まれないものだ」

「あ、彼女は作家さんなんだよ。絵本作家の村岡さん」

 不可解そうな二人に、僕は村岡さんを改めて紹介します。
 それを聞いて、すぐに大潮さんが食いつきました。

「ええ! すごい! お話を作って描いているんですね」

「ああ。何を隠そう、今はまったく新しい人魚姫を考えているんだ」

 囃し立てられて悪い気はしないのでしょう。村岡さんは胸を張って言いました。
 そうして今度は一転して声のトーンを落とすと、こんなことをささやいたのです。

「きみたち、艦娘って知っているかな。数年前、深海棲艦が突然いなくなったのと同時にすっかり聞かなくなった……自衛隊の秘密兵器とも、異界からの助っ人とも言われてるあの存在」

 彼女は言葉の最後の部分を茶目っ気たっぷりにウインクして付け加えましたが、その話を聞いた満潮さんの表情が強張るのを僕は確かに見ました。

「知らないわ」

「ええ!? さすがのわたしでも知っていますよ」

「なっ! ちょ、おお……」

 そう大潮さんに反応されたのが予想外だったのでしょう。咄嗟に彼女の名前を呼びかけて、満潮さんは躊躇っているようでした。

「もう! 知らないっ」

 最終的に満潮さんはそう叫んで、僕の後ろを通ってお店の奥へと引っ込んでいってしまいました。
 訝しむ村岡さんに大潮さんが「彼女、恥ずかしがり屋なんです」と素知らぬ様子で伝えます。

 どうやらこういう場面に強いのは大潮さんのようだと、僕はまた彼女たちの知らなかった一面を垣間見ました。
 普段から大潮さんの表情は海のように多彩で、ころころと変化します。感情豊かな子なんだなと思っていましたが、めったにネガティブな表現はしません。それは性格なのかと言えば、おそらくそれもあるでしょう。
 しかし、今の大潮さんは仮面を被っているように見えました。それも、それなりに長い時間を共にした僕が、事情を知っていてなお見抜けるかどうかわからない精巧な仮面です。正直に言うと、僕はそれが少し怖くもありました。

「それで、まったく新しい人魚姫のお話とは?」

 驚嘆も恐れも声色にのせないように注意深く。僕は話の矛先をもとに戻そうと村岡さんに話しかけました。

「ああ。そうだった。私はね、艦娘とは人魚のことだと思うのだよ」

 村岡さんはそう静かに口にすると、その言葉の余韻に浸っているかのように瞳を閉じました。

「どういう意味ですか?」

 長い沈黙の末に、大潮さんが無邪気そうに先をうながします。
 村岡さんはゆっくりと彼女の方を振り向くと、いつものように楽しそうに続きを語ってくれました。

 艦娘が人魚というか、人魚が艦娘だったのではないかなと思ってね。
 つまりはこういうこと。今までも艦娘と呼ばれる存在は海に存在していたんだ。それが人魚だとかいろいろな名で呼ばれてきただけで、彼女たちは同一の存在なのさ。

 どうしてそう言えるかって?
 そもそもなぜ艦『娘』なのか考えたことはないかい? なぜ人魚『姫』なのか、とかさ。
 国は艦娘の姿を最後まで公表しなかったけれど、実は目撃情報は各地であがっているんだ。その誰もかれもが艦娘は少女の姿をしていたと言っている。少女、そして娘……名は体を表すというけれど、まさにその通りなのだと思うよ。艦娘は少女の姿をしている。これは私の中で確定事項だ。

 そう考えれば国が艦娘の詳細を隠したのも納得がいく。少女を戦線に送るなんて人権団体が黙っていないだろうからね。
 だけど艦娘なんて呼び名が広がった時点で、国はそれを大々的に否定もしなかった。それは何故か。私はそこにこそロマンがあると思うんだよ。

 ん? 真実ではなくロマンなのか、だって?
 嫌だなあマスター。私は新聞記者でもその手の専門家でもない。絵本作家だよ?
 真実なんてものは始めから求めてないのだよ。私が欲しいのは面白い話の種。妄想に考察を重ねてやがて咲かせる大輪の花。そういった類のものに目がないのさ。もとが何の種だろうと、私が咲かせる花は私だけのものだ。

 おほん。話が逸れたね。
 さてさてここからが本番だ。ロマンの中身を聞いてくれるかい?
 
 私はそれを艦娘への誠意、もっと言えば敬意や畏怖が込められたが故の沈黙だったと考える。人ならざるもの、人知を超えた存在への……ね。
 そう、艦娘は少女の姿をしているが人ではない。これが私のロマンの根幹。そうであったら良いという願いでもある。

 もしそうなら楽しくはないかい?
 人ではない、昔から海に住んでいた隣人が、人類の窮地にちょっと力を貸してくれた。
 どうしてなのか、とか、彼女たちと深海棲艦との関わりとか、いろいろ妄想しがいのある題材だ。人魚やセイレーンには人間にとって良くない逸話も数多くある。もしかしたら、艦娘は単に人類の味方というわけではないのかもしれない。

 それに“艦”の部分にはまだ十分な考察が進んでいないんだ。最初に彼女たちを艦娘と呼んだ人は、どうしてそう呼んだのだろう。
 彼女たちが深海棲艦を砲撃で沈めたという目撃例がある。ならばその砲はどこ由来のものなんだ? 単に自衛隊の兵器と考えた方が人魚姫との整合性は取りやすい。だけどそんな兵器があるなら艦娘に頼る必要はないだろう。
 ……とまあ、今はだいたいこんなところで行き詰まっているのさ。

 
 一息にこれだけの情報を話し終えると、次に村岡さんは爛々とした瞳で僕を捉えました。マスターはどう思う? まるでそう問いかけるように。
 これはいつものことです。普段ならここで僕も子どもに戻った気分で空想に浸ってみるのですが、今回ばかりはそうもいきません。なにせ目の前に艦娘の大潮さんがいるのですから。無責任に想像を働かせる気になれないのでした。

 困った僕はひとまず村岡さんに温かい紅茶をお勧めします。夏とはいえ、雨に濡れた体は冷えるでしょう。
 村岡さんも、話に夢中ですっかり忘れていたことを詫びつつ、素直に紅茶とショートケーキを注文してくださいました。

 僕が支度をしている間、長い沈黙が続きました。ずっと村岡さんの期待に満ちた視線を感じてはいましたが、僕はこの件で何か意見を言う気はありません。
 無邪気に妄想と洒落込むには僕は艦娘を知りすぎていましたし、適当な嘘で流せるほど僕は艦娘を知りませんでした。結局のところ、彼女たちを無自覚に傷付けてしまう可能性を僕は一番に恐れていたのです。

 その時、小さな咳払いが聞こえました。
 咄嗟にそちらの方を振り返ると、大潮さんがまるで自分に注目を集めるようにもう一度咳払いします。
 僕がたまらず「どうしたんだい」と尋ねると、彼女は待ってましたとばかりにウインクして、こんなことを言い出しました。

「そう難しく考えなくていいかもしれませんよ?」

「どういう意味だい?」

 そう聞き返したのは村岡さんです。
 彼女の瞳は相変わらず好奇心に溢れていて、僕はなんだか先の展開が怖いような気分になりました。

「ああ、村岡さん。紅茶がはいったよ」

 僕がカップを彼女の前に置くのには目もくれず、村岡さんは大潮さんを見つめ続けています。

「すまない。淹れたての紅茶の味も大切だが、アイデアの種も鮮度が命だ。きみ、何が言いたいか聞かせてくれたまえよ」

「……簡単な話です。艦娘は艦の生まれ変わり。ようは艦が人の身体を得た存在。そう考えるとその名前にもしっくりきませんか?」

 唖然とする僕には気づいてはいないのでしょう。村岡さんは紅茶のカップに手を伸ばし、スプーンでかき混ぜながら答えました。

「そのくらいは私も考えた。だけどその答えに私のロマンはない。艦……軍艦とは近代の産物だ。私は艦娘とはもっと古来から人と関わってきたものだと思いたいんだよ」

 そう言ってぐるぐると紅茶をかき混ぜている彼女は子供のようです。どうやら村岡さんはすっかり大潮さんからは興味を失ったようでした。そしてその代わりに僕に白羽の矢が立つのは必然と言えるのかもしれません。

「マスターはどう思う? やはり私はマスターのインスピレーションに期待したい」

「いや、僕は……」

 すっかり困ってしまった僕は、視線で大潮さんに助けを求めました。情けない話ですが、本当に何を話していいのかわからなかったのです。
 しかし、当の大潮さんは僕に向かって頷くのみでした。そればかりか、先ほどまでの村岡さんと同じ瞳を僕に向けています。

 それで僕は、つい少し前の大潮さんの言葉が脳裏をよぎったのです。

「そう難しく考える必要はない……か」

 何か言ったかい? そう問いかける村岡さんに断りを入れて、僕は空想の世界に勇気を持って足を踏み入れました。

 次第に辺りが静かになっていきます。頭の中を言葉が右往左往して、はまるべきピースの位置を探し求め始めました。それらは習慣化された現実の外側で行われています。どんどんパズルのピースが揃い、しかし新たなピースも加わって、頭の中は様々な不思議な液体で満たされたように混沌としてきました。そして僕はそのプールに沈み込んで、なんとも言えない快楽に浸るのです。

 そうして目に見えるものが僕の意識に帰ってきた時、僕は一つお土産をもらっていました。

「そうか。船ですよ、村岡さん」

「船?」

「ええ、船です。軍艦だって船でしょう? そして船と呼ばれるものはずっと昔からありました。それこそ人魚姫の童話の時代にはとっくに」

 言葉の最後は椅子が倒れる大きな音でかき消されました。
 村岡さんが鼻息も荒く立ち上がっています。彼女はジャージのポケットからお金を取り出し、叩きつけるようにカウンターに置きました。

「ありがとうマスター。それでこそ私のロマンの理解者。すまないが今日はこれで失礼するよ。作品に向き合わなくては」

 そう言って村岡さんは脇目も振らずに、大雨の降りしきる中をレインコートも忘れて帰っていかれました。

 ※

「面白い方でしたね」

 椅子を元に戻す僕の耳元で大潮さんが囁きました。
 僕は半信半疑ではありましたが、彼女の考えもある程度想像がついていましたから、思いきって聞いてみました。

「大潮さん、僕を試したでしょう」

「かまって欲しかったんです」

 その天真爛漫な表情を前に、僕は安堵のため息を吐かずにはいられませんでした。

「とにかく、こんなことはもうやめてください。きみたちのことがバレるかと肝が冷えましたよ」

「そうよ。大潮、反省して」

 いつの間にか戻ってきていた満潮さんも僕に同意します。
 大潮さんは参ったなと言わんばかりに後ろ頭をかいていました。

「ごめんなさい。でも大潮、マスターさんにもっと知って欲しかったんです。考えて欲しかったんです。わたしたちのこと」

「そういうことは他の人がいない時にして」

 そう満潮さんがピシャリと言うと、大潮さんは珍しく少し落ち込んでしまったようでした。
 僕はといえば、慰める言葉でも、叱る言葉でもなく、ある疑問が胸に渦巻いていました。

 ――どうして僕なんだい? その時そう聞けたならどれだけ楽だったでしょうか。

 たしかに今や彼女たちの素性を知っている人は限られると思います。ですが、ゼロではないはずです。それこそ自衛隊の方々の中には彼女たちを知っている人も多くいるでしょう。
 単に黒峰くんの友人というだけで、僕がそこまで信頼される理由がわかりません。そしてその理由を聞くことができないのは、僕の弱さです。

 彼女たちはともに約束を果たすために働く仲間ですが、いつかは居なくなってしまうとこれまで何度も示唆していました。それこそ黒峰くんとの約束が守られた時が、僕と彼女たちの最後の瞬間になるかもしれません。
 アンデルセンの物語のように、彼女たちが泡となって消えてしまう様子を想像してしまいました。
 僕が感じているこの絆が、友情に似たこの感情が、僕の一方的な勘違いでなければいいと願わない日はありません。

 ご都合主義でもなんでもいい。彼女たちが人としてここに居続けてくれたらと。
 大潮さんの笑顔にほだされる満潮さん、二人の様子を見て僕はそんなことを思っていました。

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2022年6月14日