春一歩手前のこの季節が好きだ。
やっと暖かくなってきたと思ったら、冬の名残りが最後の意地を見せる。俺たち人間は翻弄されて、「まだまだ寒い」だとか「昨日よりは暖かい」だとか、そんな言葉の端々に春の到来を期待してみたり。実際は春が来たからどうしたってなもんなのに、どこか新たな季節に希望を抱いて。そうして過ごすこの季節を楽しんでいる。
彼女はどうだろう。
仕事終わり、工廠裏のベンチに深く腰掛けて、俺は燃えるような髪色の彼女を想う。
人ではない。船でもない。艦娘の彼女の瞳には、この季節の変わり目がどう映っているのだろうか。
日が落ちる時間もだいぶ遅くなった。宵闇に夕陽がほんのり朱を混ぜた空。照明の灯りがわずかに主張し始める頃だ。辺りは落ち着いた静けさに溶けている。
聞いてみたいな。
そう、思ったとき。視界の端に炎が踊った。
「あつっ」
俺は慌てて頬に手を当てる。確かな熱を感じたそこはじんわりと温かい。
だけど、俺の視線は目の前にひらりと現れた少女にかっさらわれてしまった。
燃えるような髪色の彼女……陽炎が、熱の正体である缶コーヒーを差し出して、俺の前に突っ立っていた。
「よっ、整備士A。今日もお勤めご苦労様」
そう言って陽炎はさも当たり前のように俺の隣に座る。
彼女はいつもこうして突然現れる。俺が彼女のことを考えたとき。まったく別のことで頭がいっぱいのとき。
いつも決まって“整備士A”と俺を呼ぶその声に、結局思考はすべて上塗りされてしまうのだけれど。
陽炎は今日の出撃で活躍したことを、身振り手振りを加えて誇らしげに語っている。
工廠に艤装はまわってきていないから、話の通り彼女は無傷の大活躍だったのだろう。
「そっか。すげえじゃん」
聞きたいのは別のことなのに、俺は上っ面だけの称賛を送る。
本当に聞きたいこと。どうしてわざわざ俺に会いに来てくれるのだろう。どうして整備士は上の役職も含めて大勢居るのに、俺がAなのだろう。
もしかして、が邪魔をして直接聞くことはずっと出来ていないけれど。もしかして、があるからいつまでも期待し続けている。勇気のない俺。
そんな自己嫌悪に視線を下げると、決まって彼女は不服そうに俺の肩を揺するのだ。
「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「うん。聞いてる聞いてる」
「嘘。今ぜったい別のこと考えてたでしょ」
陽炎はこういうところでとても鋭い。本人曰く、“何人もの妹を束ねるお姉さん”は伊達じゃないということか。かと言って、俺の気持ちに気づく様子はないのがなんとも彼女らしい。
見た目は真逆だが、俺の前でも彼女はあくまでお姉さんなのだ。
そうか。恋愛対象としてそもそも見られていないんだ。それなら……。
俺は一計を案じた。今なら冗談で済ませられる気がする。
「陽炎のこと考えてたんだよ」
「ほう」
俺の予想通りに陽炎は少し意外だったのだろう。おどけた様子で手を招いて続きを促した。
そら、今だ。「冗談だよ」って一言笑って言ってやれ。それで全部笑い話に流れるから。いつも通りを演じられるから。
「陽炎はさ」
――俺のことどう思ってる?
口から出たのは俺の本心だった。
途端に寒気が襲ってくる。
「い、今のはちが、違くて……!」
「ずるい。感心しないわよ、整備士A」
慌ててごまかそうとするも、時既に遅しだ。
陽炎は明らかに不機嫌になって、ベンチから立ち上がった。
このまま行ってしまうのだと俺は焦った。いや、心のどこかでは安堵していたに違いない。
しかし陽炎はいっこうに動く気配がなく、気まずさはこの場で別れたそれの比ではなかった。
「その……。わりい」
沈黙に負けて謝罪するも、陽炎は依然黙ったままだ。
っていうかこれ、フラれたってやつだろうか。なんで早まったかなあ、俺の大馬鹿野郎は。
いつの間にか暮れていた空を見上げる。照明がチカチカと眩しかった。涙が出そうなのは、きっとそのせいだ。
灯りが、消える。
「あの、陽炎……?」
俺の視界を塞ぐように、陽炎は正面から覆いかぶさっていた。
彼女の吐息を感じる。
「明日には居ないかもしれない」
「え?」
「明日には居ないかもしれない。それが私たち。それが私よ」
陽炎は怒っているのか、悲しんでいるのか、苦しんでいるのか……そのどれともわからない表情で淡々と告げた。
「聞かないで。明日には居ないから。尋ねないで。明日には会えないから」
「そんなこと……!」
「ないとは言わせないわよ。何人たりとも」
陽炎が額をコツンとぶつける。
この至近距離でも閉じない瞳が、俺には眩しくて仕方ない。だけど視線を外すこともできない。彼女の意志がそれを許さないのだ。
「だから、教えてよ。整備士A」
煌めきは炎のごとく俺に取り付いて逃がさない。心に、静かに火が灯される。
「あんたのことを教えて。それが明日生き抜く力になるから。明日会いにくる理由になるから」
「陽炎っ!」
俺は彼女の名を呼んだ。そうしないと消えていなくなってしまう予感がした。
ずっと恋焦がれていた。彼女の声を楽しみにしていた。彼女を追って、手の届く寸前でいつも引き返してきた。臆病な男の、ただすべてだった。
「俺はきみを愛してる。いかないでほしい。消えないでほしい。明日も明後日も、その次も、きみの声が聞きたい」
そっと俺の胸に身を預けて、陽炎はじっとしていた。声を押し殺して泣いていた。
俺はただただ自分のことを話した。言われたとおりに、俺の全部を。
結局のところ俺は整備士Aでしかないのだ。なぜって彼女が俺をそう呼んだのだから。
俺は彼女に役割を与えられた舞台役者。今はそれ以上でも以下でもない。それでも。
それでも、いつか整備士と艦娘という関係じゃなくなったとき。
彼女は俺をなんと呼ぶのだろう。そして彼女の世界に俺の居場所はあるのだろうか。
不安と期待に胸を締め付けられながら、俺はただ星を眺めて夢を語る。
陽炎の、彼女の温もりを感じながら。
終わり。