二度目の雫採集も熾烈を極めた。
ぼくらは幾度となく魔物の脅威に晒され、瘴気に飲まれかけ、そうしてようやく辿り着いた最深部で森の主と対峙した。戦い終えて今思うことは、もう当分の間キノコと触手は見たくないということだ。
「まったく。いつ来てもこの胞子には慣れやしねえ」
そう言って盛大にくしゃみをしているのは先輩のシグルドさんだ。先輩ですらそうなのだから、ぼくがこの森をこりごりに思うのも許してほしい。なにせここキノコの森は、その名のとおり大小合わせた様々なキノコだけで構成されている。中にはぼくの背丈を優に超えるものもたくさんあり、最初に訪れた時にはその光景に圧倒されたものだ。
そして同じ感想を抱いているのはどうやらぼくだけではないようだった。ミルラの光に照らされた一本のキノコを、フィーがしきりに眺めている。周辺の魔物は討伐済みとはいえ、その背中があまりに無防備に思えて、ぼくはさりげなく彼女のそばに移動した。
「そっか。ここが、キノコの森……」
そんな独り言が彼女から聞こえてきたのは、もうほとんど隣り合った頃だった。
フィーがぼくの方を向いて、悪戯っぽく白い歯を見せる。
「ねえルト。知ってた? わたしたち、キノコの森で生まれたのよ」
「へ?」
突拍子もない話に思わず間抜けた声が漏れてしまう。一方のフィーは「なんてね」と言いながら、くるりとまたキノコの方を見上げた。
「お母さんが昔言ってたの。わたしたちはみんなキノコの森で生まれたのよって。まあ、よくある言い伝えよね」
「へー。そうなんだ……」
ぼくは感心していた。自分は本をよく読んでいる方だと思っていたけれど、そんな話は聞いたことがない。さすがはマレードおばあちゃんだと、そういう前提でうっかりをした。
「ぼくは知らなかったや。マレードおばあちゃんは物知りだね」
するとぼくの話を聞いたフィーが、急に笑い始めた。
「そっか。ルトからしたらそう思うよね」
と目元を拭って話を続けた。
「わたしの、本当のお母さんの方だよ」
「あ……」
ぼくはしまったと反射的に口に手をやった。フィーはあまりこの手の話をしないから、すっかり認識から抜け落ちてしまっていたのだ。
彼女はぼくと同じ孤児で、それも、死別したぼくよりつらいであろう捨て子である。
「ごめん」
「どうしてルトが謝るのよ」
そう言いつつ、フィーはぼくの思考をわかっていて明るく振る舞っているのだろう。それがたまらなく情けなかった。
「わたしね。どっちのお母さんも本当に好きよ」
フィーはふわりと光る不思議な胞子を両手で掬って言った。
「だからかな……。この森に来て思い出しちゃった。わたし、この話をお母さんから聞いてから、なんだか変な夢ばかり見るようになって、一人で眠れなかったの。笑っちゃうでしょ?」
「……」
笑えるはずがなかった。時折り見る変な夢も、眠れないつらい夜も知らないぼくではない。
「そういう夜はいつもお母さんと一緒に寝てた。本当に、どうして、ああなっちゃったのかなあ」
彼女の表情はこちらからは窺い知れない。だけどその湿った声だけでぼくには十分だった。弱みを見せることを極端に恐れるフィーが、こんな話をしてしまうほど、ここは彼女にとって思い出の土地だったのだろう。
一度も訪れたことのない、だけど大切な想いの詰まった場所。そういえば、ぼくにもそういう土地はたくさんあったはずだ。小さな頃、年に一度帰ってきた母がしてくれた冒険譚を、どうしてぼくは忘れてしまったのだろう。フィーはこんなにも大切にしているのに。
「フィー」
「……ん」
そっと手を握る。それ以上はフィーの誇りを傷つけると思った。
捨てられても捨てられない想いを抱えて生きていく。きっとこれは彼女とぼくのつよさの違いなのだ。それでも、ぼくにだって彼女のためにできることがある。
「リバーベルの虹を二人で見たのを覚えてる?」
ぼくはそう切り出した。あれからまだ数十日だというのに、もうずいぶんと経った気がする。
フィーは黙って頷いた。ぼくはそれを合図に、独り言のように語り始めた。
「あの時、世界はなんて広いんだろうって思った。ぼくの知らない世界。美しくて怖い世界。もっと見たいと思ったんだ。フィーと一緒に」
彼女は依然静かに聞き入ってくれていた。安っぽく肯定するわけでもなく、かと言って否定するわけもなく。
ただ、その琥珀色の瞳から輝きが溢れ落ちたのをぼくはしかと見た。
フィーが弱みを見せたのはそれっきりだ。次の瞬間には笑顔になり、ひゅるりと風のようにぼくの後ろに回った。
「いつからそんなに生意気になったの」
そう言ってぼくの背中を小突いてくる。
慌てて振り返った時、彼女は軽い足取りで膝丈ほどのキノコに飛び乗るところだった。
そして、あの日のように、高らかに。空を指差して彼女は言った。
「約束だよ! 絶対だからね、ルト」
ミルラの輝きに照らされて、彼女の頬が紅潮しているのがわかる。
ぼくもきっとそうだろう。きみの自由にあてられて、ぼくはここまで歩みを進めてきたのだから。
近づき、そっと小指を交わす。古くからの約束のおまじないだ。
「今日は言い伝え尽くしだね」
そう彼女は笑った。たしかにこんなものは必要ないかもしれないけど、ぼくは素敵だと思っている。
そう伝えると、「じゃあ、これは?」と彼女が一足飛びに距離を詰めてきた。
ほんの一瞬。柔らかく唇が重なる。
ぼくは目を見開いた。胸の鼓動が今までにない強さで拍子を刻んでいる。
一方のフィーはそれきり何も言わずにシグルドさんたちの方へと駆けていってしまった。なんて理不尽な……いや、違うか。
「自由すぎるよ……」
ぼくは当分、眠れない夜を過ごすことになりそうだ。
キノコの森。すべてのいのちがはじまった場所。
あながち迷信とも言い切れないかもしれないなと、今は思う。少なくともぼくらにとっては、今日からが再出発の思い出の土地となったのだから。
つづく