雨と桜

 雨が好きだなんて変わっているなと思っていた。
 だけど、今や人の心と体を得た私達にも鉄の記憶はしっかり宿っているわけで、なんというか……私の理解の及ばない領域でそれらが作用して、彼女の複雑な内面を作り出しているのかな等と、一人でそう納得していたのだ。
 なにせ彼女は佐世保の時雨とまで称された武勲艦。その分の葛藤もさぞ多かったろう。
「雨が好きな理由? うーん、わかんないや」
 だから、偶然の話の流れで私が理由を尋ねた際、彼女から返ってきた答えを鵜呑みにはできなかった。
 訝しげな私に初めは困ったような笑みを向けていた時雨だったけれど、私のごまかされないぞという強い意思を察したのか、ついぞ口を割った。
「満潮は本当に変なところで強情だね。……そうだね、わからないというのは少し違うかもしれない」
 時雨は考え込むように右手の人差し指を額に当てると、そのまま駅への帰り道を変わらぬ足取りでスタスタと歩き始めた。
 今日は各々の提督から休暇をもらい、遠路はるばる二人で会ってたっぷり遊んだ、その帰りだった。群青の空にうっすら浮かんだ月を見ながら、改めて自分の鈍感さに辟易する。以前から気になっていたこととはいえ、わざわざ楽しい一日の最後にする話題ではないだろう。
 それでも、一度口から出した言葉を引っ込められる性分ではないのだ。
 そうこうしているうちにそれなりに開いてしまった距離を足早に埋める。すると私が追いついてきたのを察したのか、時雨がぽつりぽつりと語り始めた。
「雨はさ。いつか止むじゃないか」
「ええ」
「だからさ。いいよね。雨って」
「……はあ」
 散々悩んで出した答えがそれなのか。伝える気がないのか、単にからかわれているのか。
 思わず大きなため息を吐いてしまったが、それくらいは許されるだろう。黙秘権との交換だと思ってほしい。
 そんな私の様子に時雨はまた苦笑いしていた。あるいは本当に上手く言語化できなかったことに対する自嘲なのかもしれない。どちらにせよ、私にとっては同じことだ。
 これ以上の問答は不毛だと思った。私が鈍感なのか、時雨が特別複雑なのか、そこそこ付き合いは長いというのに未だにこいつのことはよくわからない。
 そんな私達が嫌になって、慰めのように再び月を見上げる。
 空は急速に暗くなりつつあった。木枯らしが吹き抜け、私は思わず身震いする。
「冷えてきたわね。急ぎましょ」
「満潮」
「なに?」
 いつの間にか前を歩いていた私の肩に、ふわりと暖かい感触が乗っかった。
 振り向けば、外套を脱いだ時雨の姿。眉を伏せ、心配そうにこちらを見つめている。
「……そういうところよ」
「え?」
 困惑している時雨に外套を突っ返す。
 とてもいらいらした。私をわかってくれないこいつにも、無垢な優しさにこんな対応しかできない私にも。
「寒いのはお互い様でしょ。私を惨めにしないで」
「ご、ごめん」
「……謝ることじゃないわ」
 私は気まずくてとっさに視線を逸らした。自分で自分をより惨めにして、いったい何をしているのか。
 まるで、周囲を傷つけることで自分を守った気になっていた、あの頃に戻ったようだった。
 足早に駅への道を歩む。何かに追われるように。そのくせ追いついてくれる誰かを望むように。そんな私に寄り添うように、ただ無言で付かず離れずの距離を歩む、もう一つの足音がその象徴だった。
 どうしてだろう。こんなに胸の中はぐちゃぐちゃなのに。頭の中は後悔の念でいっぱいなのに。私のどこかで今日一番の安心を感じている。
 月を見上げる。もうずいぶん輪郭がはっきりしていた。
 あの月のように、私の心も時雨の心も、遠くからはっきりわかればいいのに。そんなことを考えていた。
 
 やがて私達は駅に到着した。改札前で、私は振り返る。
「今日は……楽しかったわ。だから、最後に、ごめんなさい」
 去り際にずるいと自分でも思ったけど、言わずにはいられなかった。
 時雨は黙って聞いていた。私は返事を待たずに踵を返して、その場を立ち去ろうとした。
 時雨が口を開いたのは、私が改札を通り抜けた直後だった。
「僕は、嬉しかったよ」
「えっ?」
 思わず足が止まった。時雨はいつもの困ったような笑顔でこちらを見ていた。
「どうして雨が好きなのって聞いてくれたよね。僕のこと、知ろうとしてくれてるみたいで嬉しかった。僕がきみを誤解して、拗ねるきみが少し可愛かった」
「なっ」
 私は顔が熱くなるのを感じた。一方の時雨は涼しい表情で続ける。
「僕を知ろうとしてくれたこと。僕に知ってほしいと思ってくれてること。光栄だよ、本当に」
「……どうせ私はあんたと違ってわかりやすいわよ」
 私は羞恥心でこの場から消えてなくなりたいくらいだった。時雨は私以上に私に詳しいんじゃないかと思った。私は時雨のことはおろか、自分のことさえ何もわかってあげられない。
「きみが特別わかりやすい性格なわけじゃない」
 時雨はそう言う。
「僕が僕できみがきみだから、わかることがあるんだ」
「意味、わかんない」
 まるでヒトの大人と子供だ。経験値の差で会話が成立していないのをひしひしと感じた。そしてそれがなんだか悔しくて。寂しくて。私はまた私の殻に閉じこもってしまう。
「もう行くわ。……またね、時雨」
 だから、自然に生まれたその言葉に自分で自分に驚いた。とっさに時雨の方へ振り向くと、今度は心底嬉しそうな彼女の笑み。
「うん。また」
 そう言って小さく手を振る時雨に、嘘はないように思えた。それは私にとってのなによりの救いだ。それすらわかってやってくれているのか、自然体でそうなのか、考えることに意味はない。本当はとっくにわかっている。時雨はそういうやつだ。
 時雨と別れ、駅のホームで電車を待つ。不思議と先ほどまでより暖かいようで、風が吹けばやはり寒い。揺れる心と温度計。
 私は上着のポケットに片手を突っ込んだ。と同時にスマホの振動を感じる。開いてみれば、時雨からメッセージが入っていた。
『今度会う時は、きみの好きなものを教えてよ』
 可愛らしい猫のスタンプを添えて、そう記されていた。
 それを見てようやく、あいつが雨が好きな理由に嘘もごまかしもなかったのだと悟った。同時に、やはり変わったやつだな、とも思う。
 雨が好きだけど、その理由はいつか止むから。私からすれば矛盾しているように思えてならない。なら最初から晴れが好きと言えば良いのではないか。
 だけどきっと、あいつにはその瞬間が楽しいのだろう。私にはわからないが、いつか止む雨にこそ趣きを感じているのだ。そう、いつか散る花を愛でる人がいるように、たぶん。
 そこまで考えて、脳裏に風に舞う桜吹雪が突然浮かんできた。冬も春も嫌いだが、桜は好きだ。そしてその理由は、と問われれば、なるほど、これは答えに窮する。
 私は苦笑いを抑えきれなかった。そうか、そういうことか。パズルのピースがぴったりはまった気分だった。たしかにこれは、私が私で、あいつがあいつだからわかることだ。
 その時、ホームに強い風が吹き抜けた。
 もうすぐ春がくる。やがて桜も咲くだろう。
 辛い季節を乗り越えて、その分美しく。それが私の大好きな花だ。
 私は時雨に『次の季節にまた会いましょう』と返信した。メッセージには、桜のスタンプを添えた。

終わり

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2021年10月18日