盛者必衰、僕らは熟睡

 日頃から滅多に笑顔を見せないのが満潮という娘だ。
 だから彼女が眉間に皺を寄せて自室で本と睨めっこしていても、時雨としては特別驚きはない。……が、わざわざ呼びつけておいてこうも存在を無視されると、苛立ちこそせずとも多少の文句はつけたくなる。
 そこで時雨はこっそりと満潮の背中側に回り、不意打ちを敢行しようと決めた。彼女はきっと顔を真っ赤に染めて怒り出すだろうが、どうせ一過性の台風のようなものだ。出会い頭の悪戯を引っ張って一日を棒に振るほど、満潮は愚かではないと時雨は知っている。
 そーっと背後に忍び寄る間、満潮が時雨に気づく気配はまるでない。一心に何か図鑑のような分厚い書物を見つめ続けている。
 いったい何をそんなに熱心に読んでいるのだろう? そんな好奇心が時雨に宿るのは時間の問題だった。彼女は満潮の肩越しに本のページを盗み見て、その意外さに驚嘆の声をあげた。
「……恐竜?」
「ひやあああああああああ!?」
 しかし時雨の驚きなど満潮のそれに比べれば可愛らしいものである。満潮は文字通りその場で飛び上がると、脱兎のごとく部屋の隅へ撤退した。
「しっしぐっ……いつ、いつから?」
「きみがこんな顔で恐竜図鑑を眺めていた頃から」
 時雨が目尻を指で吊り上げ怖い顔を作ると、すかさず枕が飛んできた。
「バカァッ!」
「わ! ちょっ、待って。満潮、落ち着いてよ」
「もう! 信じらんない!」
 満潮は息も絶え絶え、真っ赤な顔で吠える。これはさすがにいけないと時雨は長年の勘で察した。まだまだ弄り甲斐がありそうではあったが、この辺りが潮時だろう。
「ごめんね」
 と時雨が謝れば。
「……もう」
 と満潮短く答えた。
 この頃には満潮も冷静さを取り戻し、矛を収めつつあった。彼女も彼女で時雨のこうした一面は理解しているはずだ。
 時雨が些細なことで満潮を怒らせて、時雨がなだめ、満潮が頭を冷やす。これら一連の流れはもはや様式美の様相を呈していた。
「それで、さ」
「なに?」
「そろそろ僕を呼んだ理由を聞きたいんだけど」
 そう時雨が切り出すと、満潮は再び表情を険しくした。お陰で再び時雨は慌てるはめになる。
「あー、えっと。日を改めようか? 僕、数日はこっちに居るから……」
「そういうことじゃない……けど」
「けど?」
 時雨から見て、満潮は珍しく葛藤しているようだった。もしかしたら、からかっちゃいけない本当に大事な用事だったのかもしれない。そんな考えが浮かんだ、その時だ。
 満潮が時雨の方を指差して言った。
「……それ」
「それ?」
「……っ! だから! 恐竜!」
「恐竜?」
 時雨が目を丸くした。
「そうよ。先週たまたま図書館に出かける用事があって、それで」
 そう言いながら満潮はつかつかと時雨の方に歩み寄ると、件の恐竜図鑑を拾い上げた。
「知ってた? 恐竜って約六千六百万年も前に絶滅してるんだって」
「……一応。世間的にそうなってるのは知ってる」
 突拍子もない満潮の話に、時雨も自然と慎重に答えていた。
 恐竜図鑑をめくりながら、彼らのイラストを指でなぞる満潮の瞳は、どこか寂しげに見える。
「でも、私、見たわ」
 時雨の方を見もせず、独り言のように呟く満潮。
「あの戦争で。たしかに私と彼らは見た」
「そんな」
 その話は時雨からしたら初耳だった。それに、満潮が指している『あの戦争』はたかだか七十年ほど前の話だ。六千六百万年も前に絶滅した恐竜が生きているはずがない。
 だけどそれを指摘できるほど時雨も無神経ではなかった。しかし、満潮の方も理解しているのだろう、ふっと肩の力を抜き時雨の方に向き直ると、自嘲気味に笑った。
「ほんと、人の記憶も鉄の記憶もあてにならないわね」
 時雨はじっと満潮を見つめ返していた。満潮の時折り見せる自嘲気味の笑みは、時雨が最も嫌うものであった。
 だから、意地でも否定したくなった。
「わからないよ」
「え?」
 今度は満潮が目を丸くする番だった。そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。
 時雨は努めて柔和な表情を浮かべ、彼女の方へ微笑んだ。
「だって、一度は鉄の塊として沈んだ僕たちが今こうして生きてるんだ。かつて地球いっぱいにいた恐竜たちがひょっこり顔を出したとして、何も不思議じゃないだろう」
 満潮はそれを聞いて吹き出した。今日初めての自然な笑みだった。
「時雨、それ外で言わない方が良いわよ。頭お花畑だと思われるから」
「なっ。ひどいなあ」
 そう言いつつも時雨もまた自然と笑みがこぼれる。
 満潮はと言えば、また図鑑に視線を移していた。その横顔はどこか楽しそうで、懐かしそうだ。
「でも、案外……そうかもね」
 彼女はそう呟き、そっと図鑑を閉じた。
「ありがと。時雨」
「なにが?」
「ん。なんでもない」
 お互い言いたいことはわかっていて、それでも言葉にするのは野暮とばかりに口をつぐんだ。
 満潮が座ったので、時雨もすっと移動して彼女の背中に自らの背中を預ける。首元をくすぐる彼女の髪がこそばゆいけれど、それすら心地よく思えた。
 普段は文句を言う満潮もまた、静かにそれを受け入れている。窓からの春の陽気に照らされて、どちらともなく欠伸をした。
 それがおかしくて、また二人で背中合わせに笑う。ほんのり暖かい、ゆったりした時間が過ぎていく。
「眠いや」
「ええ」
 目を閉じた。
 いずれ終わる戦いと日常の日々。そう、どんなものにも終わりは必ず来る。その後一度は沈んだこの身がどうなるか知らずとも、今はただたしかに友の温もりを背中に感じて。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。
 そんな言葉を思い出しながら、二人はいつしか眠っていた。

終わり

Novelsへ戻る
TOP

2021年10月18日