街は瓦礫の山と化していた。
あちこちで炎がくすぶり、全体を黒い煙が覆っている。時折り助けを呼ぶか細い声が宙に浮かんでは消えていった。
そんな地獄絵図の中、逃げ遅れた家族がここにも一組。父親が息子の手を引きながら、少し後方の妻のことも気にかけつつ、ひたすら東へ走っていた。最後の町内アナウンスがとにかく高台へ向かうようにと、海から逃れるようにと言っていた。
東には山がある。もう少しだ、あとちょっとだと家族を励まし懸命に坂を登っていく。
息子である少年はそんな父の姿を頼もしく見ていた。見慣れた街が火の海となって、その名残りすら失うほど変わり果てているからこそ、いつも見ていたその背中から目を離せなかったのだ。
そして、自らも父のようにしっかりしなければと強く思ったのが、この少年の誤りだった。
「お義母さん達、大丈夫かしら」
ふと、少年の耳に母の心配そうな声が咳き込みとともに届いた。父は大丈夫だと繰り返し母を急かす。だけど、誰より祖父母を心配しているのは他ならぬ父だと少年は知っていた。
少年の脳裏に優しかった祖父母の姿が浮かび、直後泣き出しそうになってしまった。
だけど、ぐっと歯を食いしばり涙を堪える。泣いてしまったら、海の見えるあの綺麗な庭で微笑んでいる祖父母を諦めることになると思ったからだ。
少年は衝動に任せて父の手を振り解いた。予期せぬことに父親の反応も遅れた。そのまま母も追い越し、坂道を走って降る。
「守!!」
自分を呼ぶ父の声の必死さにも気づかなかった。
祖父母を助けに戻る決断ができるのも、それを成し得るのも自分だけだと思った。不思議と少年には成功のイメージしか湧かなかった。祖父母を両親のもとへ連れ帰り、父から感謝される。そんなヒーローの自分を思い描いて、無意識に恐怖を打ち払っていた。
少年は走った。とにかく坂を降れば祖父母の家が見えると思い込んでいた。
現実に少年の目に飛び込んできたのは、右も左も燃え尽きた瓦礫のみ。道標になるものはないかと周囲を見渡すと、かろうじて学校帰りによく通っていた本屋の看板が目に入った。店は当然のように潰れていた。
そこで少年は初めて我に返り恐怖した。自分が今居るのが、普段生活していた街だとようやく認識してしまったのだ。
足がすくみ、全身から血の気が引いていく。祖父母に届けと叫ぼうにも煙が気管に入ってむせてしまった。じりじりと熱が体力を、そして命を削りとっていく。
少年の清らかだった瞳はすっかり絶望に染まっていた。だけど後悔だけはしてはならぬと己に言い聞かせた。祖父母を助けたいと思った自分は正しい。そう思わないと心まで挫けてしまう。
一歩一歩必死になりながら歩く。もはや祖父母の家はおろか高台の方角すらわからなくなっていても、少年は何かに突き動かされるように進み続けた。
そして、そいつと遭遇してしまった。
そいつは真っ黒で巨大な鰐のような見た目をしていたが、少年の記憶にあるどの生物と比べても明らかに異質だった。そいつはまるで生きている気配がしなかったのだ。例えるなら、そいつは死そのものだった。
少年は耳に入ってくる情けない声が自分のものだとも気づけずに、ただそいつを凝視していた。足から力が抜け、その場に尻もちをついてしまう。
死は、じっと少年を見つめ返していた。
そして吼えた。雄叫びとも女性の悲鳴ともどちらともつかない音だった。その咆哮はビリビリと空気を震わせ、少年に死を伝えてきた。
同時にそいつは少年に飛びかかった。その大きな顎と残忍な歯を持ってすれば、小さな子供など何の抵抗もなく真っ二つにされてしまうだろう。
少年は息をすることも忘れて、目をつむり、ただ生を願った。
直後、金属を叩いたような甲高い音が鳴ったかと思うと、一瞬の間を置いて強烈な爆発音が辺りに響いた。
少年は生きていた。
恐る恐る目を開けると、目の前に自分のことを守るようにして少女が立っていた。見たこともない青く長い髪が揺れ、少年の鼻先をくすぐった。
海の匂い……幾度となく祖父母の家の庭で嗅いだ香りがした。
「きみ……は……?」
かろうじて絞り出した声はかすれていて、少女に届いたかはわからない。だけど少女は振り返ると、心から安堵したといった笑みを少年に見せた。少年はそんな場合でもないのに、この瞬間少女の可憐さに釘付けになった。
「助けられて良かった」
少女は胸に手を当て息を深く吐く。その手には奇妙な形状をした二連装の拳銃のようなものが握られている。歳は少女の域を出ないが、少年よりはずっと上だろうか。青い髪と瞳が白を基調とした服装によく映えていた。
「提督、生存者を発見しました。……はい。……はい、了解です!」
少女は無線機を取り出し、提督と呼んだ誰かと短く言葉を交わした。少年はそこで初めて彼女が自衛隊員で、自分を助けにきたのだと察した。それまでは本気で神が遣わした天使だと思っていたのだ。少年は特定の信仰を持っていたわけではなかったけれど、それほど現実離れした経験を今まさにしていた。
「きみ、怪我はない? 立てるかな?」
「う、うん……」
少女が心配そうに、だけどどこか焦った様子で尋ねてきたので、少年も意味を理解した。ここから逃げなくてはならない。それも、今すぐに。
「ここを真っ直ぐに進むとヘリが留まってるの。そこまで一人で行ける?」
少女が比較的火の手が少ない、おそらく少年自身が駆けてきたのであろう道を指差す。だけど少年にはここまできても譲れない想いがあった。
「こ、この先……に、おじいちゃんとおばあちゃんが住んでるんだ。俺は……二人を助けないと……」
よろけながら進もうとする少年の肩を少女が掴んだ。信じられないような力だった。
「自衛隊のお姉ちゃん……?」
「ごめん……本当にごめんね。だけどきみは生きなきゃいけない」
少女は目に涙を溜めて懇願した。
本当は少年にもわかっていた。自分が向かおうとしていた方向、すなわち祖父母の家の方角から化け物とこの少女は現れた。その少女が自分に謝っている。生きて欲しいと願っている。これで察せられないほど、少年は無垢ではなかった。
全部全部わかっていた。でも、だからこそ認めたくなかった。少年はヒーローにはなれない。
「う……ぐ……」
堪えきれない感情の滴が頬を伝いかけたその時、轟音を立てて一番近くにあった瓦礫の山が吹っ飛んだ。
あいつだった。まだ死んでいなかったのだ。
「まだ動けたの!?」
少女が慌てて銃口を向ける。
死は、笑っているように見えた。
「何が……おかしいんだよ」
少年は怒りに燃えていた。恐怖と憎悪が混ぜこぜになって、その境目は曖昧だ。生も死もどうでもよくなって、自分が一段と強くなった気がした。
「お前がっ!!」
足下にあった瓦礫の欠片を拾い上げ、少年は化け物に向かってそれを投げつけようとした。しただけ、だった。
「駄目。……それは私の役割なんだ」
少女が片手で少年の腕を押さえていた。もう片方の腕で拳銃の引き金をひく。
銃撃音というにはあまりに生易しい、まるで大砲のような音が辺りに響き渡った。
続く