始まりの青 【下】

 誰の目から見ても同情を禁じ得ない初陣だったと言える。
 報告を受けた時点で街は既に襲撃されていた。艦隊を編成しようにも現状の手駒は駆逐艦娘一人だけ。貴重な戦力をみすみす喪うリスクを考えれば、出撃を控えさせるという選択肢もあった。
 しかし現実には敵の駆逐艦級を一隻撃破し、残りも撤退に追い込んだことで深海棲艦の拠点を増やす事態も避けることができた。自衛隊の隊員、装備ともに無傷で、もちろん艦娘も健在。
 民間人に被害こそ出たが、適切な誘導でそれも最小限に留めた。だから、結果としては最善を尽くしたと言っても過言ではない。
 それでも少なくない人が亡くなったのは避けられない現実で、街がまた一つ焦土と化したのもまた事実だった。それが五月雨の心に暗い陰を落としている。
 あの日、帰還した五月雨は出迎えた赤井の胸の中で枯れるほど泣いたというのに、未だ心は晴れなかった。
 事件から三日が経った今も、五月雨は街で会った少年のことを思い出している。
 元気……にはしていないだろう。別れ際、彼が祖父母に謝り続けた声が鼓膜に焼き付き離れない。
 結局のところ自分は彼に何もしてあげられなかった。そればかりか復讐の機会も永遠に奪った。それ自体に後悔はない。深海棲艦と過去の決着をつけるのは五月雨達、艦娘の宿命であり、本懐だ。
 言い換えれば、あの少年は五月雨達の復讐のさらなる被害者とも言える。その考えに至った時、さすがに五月雨は報告書を書く筆を止めた。
 窓の外ではしとしとと雨が降り続いていた。
 五月雨はそれを横目に見ながら、あの火に覆われた街の景色を思い浮かべた。まるで空襲にでも遭ったような地獄の惨状。
 もし自分がもっと早く駆けつけていたら、ああまではならなかっただろうか。この雨で未だ燃え続ける家屋も鎮火するだろうか。そんな想いの数々が止めどもなく湧いては心の体積を圧迫した。
 ふとドアノブが回る重たい音が鳴り、五月雨の意識は現実に引き戻された。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま……」
 執務室へ入ってきたのは赤井だった。疲れた顔をしている。
 五月雨は努めて笑顔を作って彼女に駆け寄ると、着ていた外套を受け取り、そばにあるハンガーラックへ吊るした。
「首尾はどうでした?」
 五月雨が尋ねると、赤井は眉間にしわを寄せて難しい表情をした。
「上の方々はどうあっても責任を取りたくないらしい。かと言って数少ない実動部隊の私達を処分するわけにもいかないだろうからな。上同士で責任をなすりつけ合ってる」
 そう言って肩を竦めて、初めて笑ってみせた。しかし五月雨にはそれがどこか自嘲しているように見えた。
「人って難しいですね」
 五月雨は胸に手を当て考え込むようにして言った。目の前の赤井も、上層部で醜いやり合いをしている人々も、街で会った少年も、そして何より今は五月雨自身が広義では人である。
 自己矛盾にも似た悩みを吐露していることに五月雨は気がついていなかったが、それは奇しくも赤井の思うところの人の本質であった。
「なあに慣れてるさ。それに人ってのは利己的なものだ。誰だって自分は損をしたくないし、上に立つチャンスは逃したくない。私もそうやって生きてきた」
「提督も……ですか」
 五月雨が顔を上げる。赤井はまた先ほどと同じ笑みを浮かべていた。
「そう。私に言わせれば他人に優しいなんてのは傲慢さの塊か無知の証明みたいなものだ。五月雨もよくよく注意した方がいい」
 五月雨は苦々しい感情が己の中にどろりと渦巻くのを感じた。それはあの少年の行いを真っ向から批判されたからなのか、自らの思想に釘を打ちつけられたからなのか、五月雨自身判断がつかなかったが、確かなのはこの時珍しく五月雨は腹が立った。
「人は……提督が思うほど醜くないと思います」
 対し、赤井は穏やかに諭すように言った。
「五月雨は優しいな。だけど、私のような人間も多いことを知っておいた方が良い」
「……っ! そんなこと言わないでください!」
 五月雨は烈火の如き怒りに任せて叫んだ。心臓の鼓動がやけにうるさく、それからしばらくして後悔がどっと押し寄せてきた。
「……ごめんなさい。私、提督になんてことを」
「いや、いい。怒って当たり前なんだよ」
 そう話す赤井はやはり同じように笑っていた。
「実を言うと、少し君を試した。艦娘について私は何も知らないからな」
「試す……ですか」
 五月雨は一転、キョトンとして赤井が言葉を続けるのを待った。
「ああ。初めて会った時、君は私にこう言った。『私は人の悲しみを知っているから、わかるんですよ』と。どういう意味か、あの時は深く考えなかったが」
「言葉通りの意味です。私は船でしたけど、だからこそ今は感じられない色々なことを受け入れられました。私に乗っていた人達がどう思い、何を考えていたか、感覚で知っているんです」
「そんなところだろうと思っていた。だから君は知っているけど感じたことがない感情ってやつにまだ本当の意味じゃ慣れていないんだ。人という存在を俯瞰はできても、自分が今まさに何を感じているかは処理しきれないんじゃないか?」
 五月雨は首を傾げた。赤井の言うところがよくわからなかったのだ。
「私は感情を知っています。今は感じる器もあります。むしろよく理解できると思うんですけどぉ……」
 無自覚な自信の無さの表れか、最後の方は消え入りそうな声でそう話す五月雨を、赤井はもう笑わずに見つめていた。
「なあ、五月雨。よく聞け。あれは、君のせいじゃない」
「え……?」
「私は艦娘ではない。ましてや神でもないし、人間としても出来損かもしれない。だけど、はっきりわかる。五月雨、報告にあった少年のことで気に病んでるだろう?」
 五月雨は急に心臓を掴まれたかのように竦み上がった。
「どうして……」
「当然だ。これでも君が選んだ提督とやらなんだから」
 赤井はどこか気恥ずかしそうにそう言うと、五月雨の眼前に人差し指を立てて忠告の姿勢をとった。
「いいか。昔はどうだったか知らないが、今の君は悲しみを知っているんじゃなくて、感じているんだ。そこを勘違いしたままだと必ずどこかで心が壊れるぞ」
「壊れる……心は形がないのに壊れるんですか?」
「そうだ。心は形もないくせに傷つくし、騙し騙し使っていると壊れる。本当に厄介なものなんだよ」
 ほんの一瞬、赤井の表情が暗くなる。けれど五月雨がそれに気がつく前に、彼女は軍帽を深く被り直した。
「とにかく、終わったことをいつまでも悔やむのはやめろ。それかこの件が納得いくまで戦うな。これは提督命令だ」
 そう言うと赤井は踵を返してつい昨日運び込んだソファにどっかりと座り込んだ。
 五月雨は彼女のあまりの剣幕に呆気にとられてしばし言葉を失っていたが、急に思い出したかのように疑問を口にした。
「提督は知っているはずなんですけど……えっとぉ」
「なんだよ」
「私、過去の亡霊みたいなものなんですよ? 終わったことを悔やむのとか、戦うことをやめたら、その、存在意義がですね」
 今度は赤井が呆気にとられる番だった。と思えば少しの間を置いて笑い始める。
「ははは。そうか、そうだったな。まさに私は傲慢で無知だったってわけだ」
 赤井がひとしきり笑い続けて、やがて静寂が訪れると、その頃にはすっかり五月雨は気分を悪くしてしまっていた。
「そんなに笑うことですか?」
 頬を膨らませ抗議する。
「いやすまない。勝手に君を人の括りで見た挙句、先輩風を吹かせた自分が滑稽で仕方なくて。しかし上層部もなんて重荷を私に押し付けたんだろうね」
「私、重すぎますか?」
 なおも拗ねたように顔を横に背け、五月雨が愚痴る。
「亡霊と共に過去の精算をしろだなんて、それこそどんな人間の手にも余るさ。なんだかんだ言っても人は未来に向かって生きるものだからな」
「私にはわかりません。過去しかない、私には」
「ふうん」
 赤井はどこか楽しそうに五月雨を見つめていたが、やがて口を開いた。
「運命の中に偶然はない。知っているか?」
「なんですか? それ」
「アメリカの古い政治家の言葉だ。人はある運命に出会う以前に自分でそれを作っているんだと。ふん。私に言わせれば強者の理論だが、今は少し信じられる」
 五月雨は黙って聞いていた。口を挟める雰囲気じゃなかったのもあるし、アメリカという言葉につい驚いてしまったせいかもしれない。
「私はずっと未来だけを見て生きてきた。たぶん、多くの人間がそうだ。他者を蹴落とし、ただ必死に上へ上へと……。そこに来てこの世界の危機だ。少しは過去を振り返れ、思い出せって言われてるのかもな。そういう時代、運命ってやつなのかもしれない。だとすれば……」
 そこで赤井は一度言葉を区切ると、立ち上がり窓の外を眺めた。
「だとすれば、君達を今の世にその姿で送り込んだのは何者なんだろうな。神か未来人か、はたまた異星人か……なんにせよ自ら引き寄せた運命に私達は立ち向かわなければいけない」
「私が言うのも変かもしれませんけど、理不尽だとは思わないんですね」
 聞いているうちに赤井自身に興味の湧いた五月雨が口を挟む。赤井も気を悪くした様子もなく五月雨の方に振り返ると話し続けた。
「まあ、な。人生はいつだって理不尽だ。乗り越えたやつだけが本当の意味で自由になれるのさ」
「それはどこの国の政治家さんの言葉でしょう?」
「……私だよ。なんだ、悪いか」
「えっ、あ、あはは……」
 赤井が気恥ずかしそうに頬を赤らめながら五月雨を睨むので、何故だか彼女は少し可笑しくて笑ってしまった。赤井はそれを咎めるでもなく、目を細めて見つめる。
「ずっとそうやって笑っていろ、五月雨」
「あ、ごめんなさ……え?」
「過去しかないとか言うな。『私が居ます』。さて誰の言葉だったかな」
「あっ」
 五月雨がはっとしたように口に手を当てる。それは三日前、二人が初めて心を通わせた言葉だった。
「ず、ずるいです。提督」
「大人はずるいんだよ。なあ五月雨、君が少女の姿で生まれ変わったのも運命だとするなら、そこにも必ず意味があるはずだ。過去にこだわるのをやめろとは言わない。だが、過去と同時に今運命に立ち向かうことも決してやめるな。これは君に理不尽に選ばれた私からの唯一の命令、契約だ」
 五月雨が息を呑む。赤井からこんな風な言い方をされたのは初めてだった。
「忘れるな。私達はそれぞれの運命に立ち向かう。だけど一人じゃない。そう、もう一人じゃないんだよ」
 どこか自分にも言い聞かせるように、赤井はゆっくりと力強く話した。五月雨は心の芯が温かくなるのを確かに感じた。それは言葉にするのは難しい知らない感情のようでもあり、ずっと抱きしめてきた想いのようでもあった。
 だから、元気よく返事をする。
「はい! 提督、私忘れません。絶対」
 よし、と呟いた赤井の頬はやはり染まっていた。慣れないことをしたと本人も思っているに違いない。だけど、これから先は慣れないことだらけだ。
 運命は、動き出したんだから。

終わり

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2021年10月18日