始まりの青 【上】

 質素な……と形容するのもおこがましい、空虚な部屋だった。
 六畳半ほどの空間に、どうやら机代わりと思われるダンボール箱が一箱、ペンギンのような未知の生物を模した人形が詰められた箱が一箱。家具はそれだけで、あとは広く大きな窓が港に向けて開いている。
 潮風が青いカーテンを揺らし、さんさんと輝く太陽光を窓枠が反射していた。
 部屋の中には二人の女性。片方は綺麗に整った海上自衛官の制服に身を包み、やはり短く切り揃えられた黒いショートヘアに旧式の海軍帽を乗せていた。今にも倒れそうといった風貌で、目の前の光景から目を逸らすようにうつむいている。
 もう一方は女性と言うには年若く、異界の少女のような見た目をしていた。というのも、彼女の髪も瞳も青く澄んでおり、浮世離れした雰囲気を漂わせている。
 服装は青によく映える白のセーラー服で、黒髪の女性とは対照的に目の前の光景を期待に満ちた笑顔で見据えていた。
「提督ぅ! ここが私達の執務室なんですね!」
 少女が無邪気に口を開く。提督と呼ばれた女性は大きくため息を吐くと、手で頭を覆い、すっかり信じたくないものを突きつけられたかのように硬直してしまった。
 もっとも、それも無理のない話ではあるのだが。

 赤井秀子。今や提督となった女性の名前である。
 防衛学校を首席で卒業した彼女には輝かしいキャリアが待っているはずだった。……少なくとも、こんな何もない部屋に見ず知らずの少女と二人きりで放り出されるなんてことは予想していなかっただろう。
 何が悪いと問われれば、深海棲艦が悪いということになる。突如として出現した人類の脅威は、海の秩序を破壊し、謎の妨害電波により国家間の通信も断絶させ、取り残された哀れな島国は刻一刻と滅亡への一途を辿ろうとしていた。
 しかし希望は現れた。今まさに赤井の目の前で無邪気に振る舞う少女、彼女こそがかつての大戦における艦艇の霊を宿した存在、艦娘である。
 彼女達はその身に宿る力を持って、いかなる最新鋭の兵器でも傷一つ負わせられなかった深海棲艦を撃退せしめたのだ。
 そしてもう一つの希望は人類の中から現れた。すなわち提督であるが、今まで何も特異な点のなかった人物、中には自衛隊関係者以外からでも、艦娘はその素質を見抜き自らの指揮権の全てをその個人に委ねた。これがまた大問題で、古きより縦社会によって均衡を保ってきた日本人にとっては特に要らぬ波紋を呼び起こすことになったのだが、事は国家及び世界の一大事。
 艦娘と提督は一般に秘匿された上で独自の指揮体系を確立し、今ようやく深海棲艦に対して反攻作戦を取り行うこととなった。……というのが赤井が防衛大臣より直々に賜った話だったのだが、通されたのは先ほど述べたとおりのおよそ国家の命運を担う人間に相応しいとは思えぬ部屋。
 狐か狸に騙されたと思った方がまだ信憑性があると、赤井は本気でそう思った。
「提督、提督! これは何でしょう?」
 一方の少女はペンギンの出来損ないのような人形を手に、はしゃいでご満悦のようだった。年相応どころか見た目よりもずっと幼い赤児のような素直さだ。
 赤井は差し出された人形を見るからに嫌そうに睨むと、少女の手から取り上げて自らの背後へ放り投げた。
「ああっ!? 何をするんですかぁ」
 少女は涙目になりながら落ちた人形を拾いに走った。さながら子犬のようだ。赤井は頭を抱えると、彼女が主人のもとへ尻尾を振って帰ってくるのを待った。
「五月雨」
 赤井が戻ってきた少女にそう呼びかけると、彼女は嬉しそうに返事をし、指示を待つかのように上目遣いで赤井を見つめた。
「いくつか確認したいことがあるのだが」
「はい! 私にわかることでしたら」
 赤井は五月雨の元気の良さが理解できず、状況も相まって軽い混乱状態にあった。その中にあっても現実から目を逸らさずに立ち向かおうと考えたのは、彼女の負けん気の強さが為せる技か、それとも提督としての素質か。
 とにかく彼女は五月雨にいくつか簡単な質問をした。あえて彼女が何者なのかといった漠然とした疑問をぶつけることはしなかったが、結局のところ赤井が知りたいのはそれと、今後自分がどうなるのかであった。
 君の艦種は何かと問えば、白露型駆逐艦だと返ってきた。では生物学的分類はと問うと、それはわからないと言う。生きているのか、死という概念がわかるかとの問いには、短くはっきりと、はいと答えた。
 これから我々が何をすべきか、私の聞き及んでいない情報で君の知ることは何かないかと赤井が問いかけると、そこで初めて五月雨は驚いた様子で、自分は提督に従うだけですと語った。
 赤井は頭が痛くなった。
 こんな屈辱は久しぶりだった。馬鹿にされているなんて表現では生温い。まるで生き地獄に叩き落とされたようなものだ。
 赤井には人一倍努力してきた自負がある。結果も出した。周囲も認めさせてきたつもりだった。
 それが突然、狂った世界で、おかしな人型の何かと二人っきりで、何の支援もなくただ戦えと放り出されたのだ。赤井にとってそれは死よりも恐ろしく、どんな喜劇よりも面白おかしく思えた。
 気づけば赤井の口元には笑みが浮かんでいた。
「提督……?」
 五月雨が怪訝そうに赤井の顔を覗き込む。しかしその深紅の瞳はもはや五月雨を見てはいなかった。
 見返してやる。ここまで自分を貶めた連中を一人残らず後悔させてやる。赤井の心に浮かんだのはそうした反抗心だった。そうしないと己を保てなかった。
 若いからと、女だからと散々侮られた。身寄りがない、コネがないことで人よりずっと苦労した。この赤い瞳のせいで化け物と罵られ、恐れられた。
「いいじゃないか、上等だ。やってやる。海の化け物どもを一匹残らず駆逐して、何もないこの部屋から出世して……それで、そう、私は……!」
 言葉の続きは出てこなかった。何故ならそれはもう叶わない夢だから。赤井自身忘れてしまったことだから。
 そして何より、五月雨がそっと彼女を抱きしめたから。
「……っ!? 何を」
「泣かないでください、提督」
 赤井には最初、五月雨が何を言っているのか理解できなかった。事実として涙の一滴も彼女は流していなかったのだ。
「泣いてなどいない」
 赤井は五月雨を振り解こうとしたが、その細い身体のどこにそんな力があるのか、ピクリとも動かない。
「五月雨、離せ」
 赤井は観念したようにそう呟いた。すっかり毒気を抜かれてしまい、これ以上抵抗する気にもならなかったからだ。
 五月雨は大人しく従った。そして言った。
「今のが泣いてないなんて嘘です。私は人間の哀しみを知っていますから、わかるんですよ。それに」
 五月雨は赤井から数歩離れるとクルリと振り返って笑みを見せた。まるで踊っているような動きだった。
「何もないなんて言わないでください。私がいます」
 太陽の光が窓から五月雨を照らし、澄んだ青空のような髪をキラキラと輝かせた。さながらこの世のものとは思えない光景に、赤井は息を呑んだ。
 しかし、目を逸らそうとはしなかった。青い視線と赤い視線が互いに交わり、どちらともなく微笑んだ。
「わかった。わかったよ。非礼を詫びる。……それと、これからよろしく頼む」
「はい! お任せください!」
 待ってましたとばかりに五月雨が元気よく返事をする。不思議なことに、赤井は今までの人生で出会ったどんな人物よりも、今は五月雨が信用できた。彼女の笑顔には裏も表もない、そう感じさせるものがあったのだ。
「しかし行動を始めようにも、こう手がかりがなくては……」
 赤井は顎に手を当て思案する。思考はなんとか前向きに切り替わってはいたが、状況は依然として最悪だ。
 数少ないツテだがあたってみるか。そういえばこの施設に通信機の類はあるのか確認すらしていなかった。そんな風に頭を整理していると、ふいに一つしかない入り口のドアがノックされた。
 赤井と五月雨が顔を見合わせる。やはりというか、さすがに政府も自分達を完全に見放したわけではなかったらしい。
 赤井がどうぞと返事をすると、失礼しますという女性の声とともにドアがガチャリと開いた。
 おかしな三人組が部屋に入ってくる。というのも、うち二人は赤井と同じかそれより若い女性、残りの一人はまるで人形のような体型で、不自然に顔だけが大きく、身長は五月雨の膝下ほどだった。
「艦娘か?」
 赤井は即座にそう問いかけた。一応自衛隊の施設であろう場所に、制服以外で出入りする女性というと他に思い当たらなかったのだ。
「ご明察の通り、私は軽巡洋艦の大淀。彼女は工作艦の明石と言います。妖精の彼女は見えていますか?」
 そう言うと大淀と名乗った女性は足元の人形体型のそれを指差した。
「その人形のような生き物が妖精だと言うなら、見えていることになるな」
「それを聞いて安心しました。いえ、五月雨さんを疑っていたわけではありませんが、一応」
「その言い分だと提督というのも特殊な存在なのか? 自分で言うのも変な話だが」
 肩を竦めてみせる赤井の隣で五月雨がうんうんと激しく頷いている。
 大淀は少し意外そうに眉をひそめたが、またすぐに真面目な顔に戻ると話を続けた。
「貴女はずいぶん落ち着いていますね。話が早く済みそうで何よりです」
「恥ずかしながら既に一悶着あった後でね。もう少し早く君達が来てくれていたら、それも無くて済んだかもしれないが」
「説明不足及びそれが遅れたことは謝罪します。いえ、正確にはまだ説明できないのです」
「何だと?」
 赤井の眉間に皺が寄る。
「では君達は何のためにここへ来たのか」
「命令を伝えるためですよー、女大将」
 それまで成り行きを見守っていた明石と紹介された女性が口を挟む。
「命令? 誰から……いや、聞こう」
「そりゃあこのお国のトップもトップ。中身は急を要するので心して聞いてくださいね」
 明石の表情が暗くなる。赤井もどこか嫌な予感がした。
「この鎮守府近郊の街が深海棲艦の襲撃を受けています。ええ、今まさにです」
「赤井提督、貴女の最初の任務は至急艦隊を編成し、上陸した深海棲艦の牙から市民を守ることです」
 大淀が明石の言葉を引き継ぎ、淡々と語った。
 赤井は小さく頷くと、気を引き締めるように軍帽を被り直す。
「艦隊の編成について、いくつか説明を求む」

続く

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2021年10月18日