見上げてごらん

「おめでとー、榛名! コングラッチュレイション!!」
 ティーカップを高々と掲げた金剛の一言で、同席していた比叡と霧島もパチパチと手を叩く。主賓である榛名は恐縮そうに頭を下げた。
「お姉様方、それに霧島も、遠方から遥々会いに来てくれて……榛名、嬉しいです」
 そう言って目元を拭う榛名の背中を、金剛が優しくさする。
 晴天の呉の港で行われているささやかなお茶会。しかしこれが実現するのに多くの人や艦娘の尽力があったことがわからない榛名ではなかったのだ。それ故の嬉し涙でもあった。
 なにせ金剛型艦娘は深海棲艦が跋扈するこの世界において、誇張なしに国の守り手として東奔西走する存在である。……たった一人、訓練教習中だった榛名を除いて、だが。
 しかしながらそれも今日までのこと。本日付けで榛名も訓練生を卒業、ここ呉を旅立ち、佐伯湾に新設された鎮守府へ配属されることが決まっている。
「榛名は泣き虫ですネー。でもワタシはそんなあなたを誇りに思うヨ」
「そんな……榛名、まだ何も為していません。これからもどうなるか」
「榛名は自分に厳しいなあ。訓練成績を見ても、もっと自信を持って良さそうなのに」
 比叡がバスケットのクッキーに手を伸ばしながら言うと、霧島もうんうんと同調した。
「私の計算によれば……万事上手くいくこと疑いなしです」
「そ、そうでしょうか」
 優秀な姉妹たちに持ち上げられ、若干居心地の悪そうな榛名である。それを察したのか、金剛は声のトーンを少し落とし、優しく諭すように声をかけた。
「ダイジョーブ。榛名は一人じゃありません。いざとなればワタシたちがどこからだって助けに行きます。それに、あなたにはこれから素敵な出会いがあるはずですヨ」
 そう、意味ありげにウインクする。
 榛名は未だ自信と覚悟が定まらない自分を情けなく思いつつ、金剛のその言葉が妙に温かく胸に染み込むのも感じていた。
「素敵な……出会い……」
 復唱し、空を見上げる。
 今日の呉の空は、それはそれは見事に青かった。遥か遠くまで永久に続くような、深くて海のような青。吸い込まれ、なんだかそのまま溺れてしまいそうな怖さを感じて、榛名はそっと視線を下げた。
「姉様、そろそろ」
 ちょうどそのタイミングで比叡がそう切り出した。申し訳なさそうに榛名の方を見る。
「ごめん。私と霧島はもう戻らなきゃ」
「いえ、今日は来てくれてありがとうございました。どうかお元気で」
 榛名が頭を下げると、その頭を比叡が優しく撫でた。にっこり笑って、金剛の方にも一礼すると、いつの間にか近くに来ていた男性のもとへ走っていく。
「二人のテートクデス」
「提督……」
 榛名にとっては未だ知識だけの存在。興味に駆られて比叡たちの方を見ると、いかにも海自将校といった出立ちの、髭をたくわえた恰幅の良い紳士が笑顔で彼女たちを迎えるところだった。
「テートクには彼のように素質が必要デス。でなければ相当なハンディキャップを背負って努力を重ね、いつ空くかもわからない席に座れるラッキーを待つしかありません。それは普通は選ばない困難な道デス」
 金剛が真剣に話すのを榛名も黙って聞いていた。誰のことを言っているのかはわかっている。榛名自身も不安と期待が入り混じっているのだ。
「私はどんな方にでもついていきます」
 自分を納得させるためにもそう呟く。
 そんな榛名に金剛は困ったような笑顔を見せた。
「察しが良すぎるのも考えものデスネ。榛名、心配は要りません。あの若者は……おっと、もうテートクでしたね。あの新米テートクは、たしかに後者。今までもこれからもきっと苦労は絶えないでしょう。だけどね……」
 そこで金剛は一度言葉を切ると、ゆったりとティーカップを口もとに近づけた。紅茶の香りを楽しむように、これまたゆっくり口に含み味わっている。
 それはどこか言葉を選んでいるようにも榛名の瞳には映った。実際、続く言葉は紅茶とともに飲み込まれたようだ。空になったティーカップをテーブルへ置くと、金剛は無言で空を眺めた。
「榛名」
 金剛が口を開いたのは、それからずいぶん経ってからだ。
「今日の空は素敵ダヨ。後片付けはワタシがするから、呉の港とそこから見える景色にサヨナラしてきなさい」
 優しくも、有無を言わせぬ口調である。
 どちらにせよ迎えまではまだ時間があったし、一人になって考えたいこともあった。榛名は金剛の言うことに素直に従い、彼女に深々と礼をすると、埠頭の方へと歩み始めた。

 埠頭に着いた榛名は、金剛に言われた通り空を見上げた。呉から見える、広島の空。榛名にとって無念の象徴であるその空を、今はただ静かに心に刻みつける。
 金剛はさよならしてくるようにと榛名に言ったが、榛名には最初からそれは無理だとわかっていた。というより、してはならないと思っていた。
 あの空は、いつになってもかつて榛名が守ることのかなわなかった命を思い返させる。榛名の戦う理由であり、強さの在り方なのだ。優秀な姉妹たちに囲まれ、どれだけの劣等感と自己否定を胸に秘めようと、呉の空はいつも容赦なく榛名の心を奮い立たせる。誰になんと言われようと忘れることなどできようもなかった。
「空を見ているのかい」
 そんな風に想いに耽っていると、後ろから急に声をかけられ、榛名は反射的に振り返った。
 そこに居たのは若い男性。坊主頭に、少年を思わせる大きな瞳。海自の制服に身を包んでいたが、自衛隊員にしては華奢な体はまだまだ服に着せられているといった印象だ。
「ああ、すまない。驚かせるつもりはなかったんだ。金剛さん……金剛がきみがこちらに居ると話してくれて」
 それを聞いて合点がいった。
「あ……。もしかして白石提督でしょうか。榛名の配属先の……」
 榛名は今一度しっかり向き直ると、深々とお辞儀をした。
 白石もまたお手本のような敬礼を返すと、先に解いて榛名にも休むように促した。
「そんなに固くならないでくれると嬉しい。これからは力を合わせて戦う仲間なんだから」
「仲間……ですか」
「おかしいかな」
「いいえ。素敵です。とっても」
「そうか。良かった」
 白石の人懐こい笑みにつられ、榛名もまた柔和な表情を浮かべる。この人とはなんとなく上手くやっていけそうな気がした。
 しかし榛名の笑顔は長くは続かなかった。
「金剛が言っていたんだ。ここから見える景色と、榛名と一緒にお別れしてきなさいと」
「そう……ですか。やはり敵わないですね」
 白石のその一言で榛名はどうしても落胆してしまう。金剛は榛名のことなどすべてお見通しだったのだ。榛名がここから見える景色に抱く感傷も、与えられる勇気も全部見抜いた上で、それでも別れるべきだと、こんな素敵な使者まで送ってくれたのだ。
 本当に、あの立派な姉と比べて自分の弱さが嫌になる。榛名は唇を噛み締めた。
「……呉から見える広島の空は、榛名にとって必要なものなんです」
 どうして初対面の、しかも直属の上官にこんな話をしているのか榛名自身もわからない。まだ会ったばかりだと言うのに彼の人柄がそうさせるのか。
 戸惑いの中、ただ言葉がこぼれ落ちていた。
「だから本当は、本当はお別れなんてしたくない。できないんです。あの空がなかったら、榛名、きっと怖くて戦えません……」
 ああ、自分はなんと情けない。きっとこの提督にも幻滅されたことだろうと榛名は思った。しかし。
「榛名」
 優しい、風のような声が榛名に向けられた。白石である。
「見上げてごらん。ああ、太陽が直接目に入らないように」
 榛名は従った。いつもの空。毎日毎日睨むように見続けてきた空。耳元で白石が囁く。
「お別れしなくていい。ただしばらくは会えないから、ちゃんと目で見て、耳で聴いて、この景色を覚えておいてほしい」
「良いのですか……?」
「もちろんだとも。金剛はああ言ったが、今のきみの提督は私だ。命令だと思って聞いてほしい。それとも、職権濫用が過ぎるかな」
 そう言って朗らかに笑う白石。榛名は戸惑いとわずかな罪悪感こそ未だ消えていなかったが、それでも白石の言うことに甘えてみようと、そんな気持ちになっていた。
 空を見上げる。今日は雲一つない青空が広がり、終わりはない。潮風が榛名の巫女装束をはたはたと揺らした。海鳥たちはシンフォニーを奏で、空の中を自由に戯れている。
 榛名はいつもの景色が、いつもとまったく違うことに気がついていた。いつの間にか呉の港も、広島の空も、榛名自身までもがすべて混じって一つのキャンバスに描かれていくような、不思議な感覚。そしてそこに新たに描かれた青年の姿があった。
「私はきみの痛みをすべてわかってあげられるわけじゃない。この景色をきみがどう受け取っているのかも想像の域を出ない。だけど約束する。私は決してきみたちを想うことをやめない。それが私にできる一番重要で必要なことだから」
 白石の力強い言葉が、今は耳に優しい。榛名は自身の提督が彼であることをただただ嬉しく思った。弱みを隠す必要がないと思えたのは初めてだった。
「榛名は、提督のお役に立てるでしょうか?」
 弱みついでに、今一番の不安を口にする。ただ、言うまでもなくそれは杞憂であった。
「私はきみを必要として、きみに会いたくてここに来たんだ。それに」
 そこで白石は一度言葉をきると、鼻の頭をかいて恥ずかしそうにこう言った。
「きみが私の役に立つんじゃない。人々のために私たちが力を合わせるんだ。きっと私たちなら上手くやれると思うんだが、どうだろう?」
 返答は決まっていた。
 榛名は大きく頷くと、子供のようにはしゃいで提督に抱きついた。慌てる白石の様子すら愛おしい。この日、榛名は生まれて初めて人を好きになった。
 呉の港に暖かい風が吹き、海面を揺らした。空は悠然と二人の様子を見守っている。
「今までありがとう。行っておいで」
「元気でいるんだよ」
 そんな声がどこかから聴こえた気がして、榛名はまた空を見上げたのだった。

 なお、白石提督が秘書艦の五月雨に惚れていることに榛名が気づくのはもう少しだけ先なのだが、それはまた別のお話。

終わり

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2021年10月18日