朝潮さんたちと出会って、幾分かの時が流れました。
彼女たちは本当によく働いてくれて、お店の売り上げは右肩上がり。中には彼女たちの噂を聞きつけてきたお客さまも多く居て、僕は始め注意深く接していたのですが、彼女たちの人徳の為せる技か、どのお客さまも本当に気の良い人たちです。今では皆さんお店のリピーターになってくださいました。
僕自身と彼女たちの仲も、僕の勘違いでなければ深まったように思います。中でも大潮さんはよく話し、よく笑ってくれました。姉妹のムードメイカーであったという彼女は、あっという間にお店のそれへと馴染んでいます。
少々真面目すぎる朝潮さんの肩の力を抜き、気難しい満潮さんの手を引き、荒潮さんの時々いじわるな冗談にも屈託のない笑みで応える……僕から見て大潮さんは、ムードメイカーどころか姉妹のリーダー的存在に思えました。
そしてそれは決して的外れな考えではなかったのです。いえ、彼女もまたひとりの少女に過ぎず、それでも途方もない責任感を抱えて、必死の想いで立っていたことにまでは気がつかなかった僕に、それを語る資格はないのかもしれません。
それでもその一端に触れることができたのは、“友”として光栄なことであったと、僕はそう思っています。
あれはあの夏の、とくに暑い日の午後のことでした。
いらっしゃいませ、と大潮さんの元気な声が店内に響き渡ります。
ちょうどコーヒーを淹れていた僕も、その声につられて朗らかな笑みを入り口の方へ向けました。
そのお客さまは、ひと目見て高校球児とわかりました。土の跡の残るユニフォーム姿で、学生鞄と野球用具の入った袋を肩からさげています。丸刈りの頭には汗が滲んでいて、おそらくは練習帰りなのでしょう。彼はずいぶん疲れているように見えました。
大潮さんが気を利かせて彼を寛げるテーブル席へ案内しようとしましたが、彼はそれを断って、僕のすぐ前のカウンター席に腰掛けました。
すぐに朝潮さんが荷物置きを用意してくれて、彼は不器用にお礼を言うと、荷物を大切そうにそこへ置きました。そして慣れない様子でメニューを見て、アイスティーをひとつ僕に注文します。
見かけないお客さまでした。まだ若いのに眉間にしわを寄せて、まるで警察署に自首にでもきたかのように思いつめた表情をしています。
僕はこっそりシロップをひとつ多くアイスティーに添えて、彼に出すことにしました。
しかし彼は少し悩んだように固まると、シロップは入れずにそのままアイスティーを一気にストローで吸い上げています。
よほど喉が乾いていたのか、甘いのが苦手だったのか、それとも作法を気にした末にシロップを使わない選択をしたのか。僕にはわからない葛藤が彼の中であったことだけは確かなようで、アイスティーを飲み干した彼は大きく一息つくと、僕の方を見て何か話したそうにしました。
ごく稀な例外を除いて、僕の方からお客さまに声をかけることはありません。お客さまが話したい時に聞き手にまわることはありますが、基本的には僕はせっせと手を動かして働いています。
ですがこのお客さまは明らかに僕に何か言いたそうにしているにも関わらず、それを躊躇しているようです。幸い今は他のお客さまも少なかったこともあり、僕は例外を行使することに決めました。
「御用がありましたら、いつでも、どんなことでもどうぞ」
彼と目を合わせてそう伝えました。
そして彼の目に安堵の色が浮かぶのを見て、僕もほっとしたのです。
「あ、あの……。マスター、でよろしいですか」
おずおずと彼が口を開きます。大きな体格に似合わずとても小さな声です。
僕は名を名乗り、改めてご挨拶しました。彼はそれでいくらか緊張が解けたようでした。
「では、あの、灰島さん。俺は藤野って言います。この喫茶店の噂を聞いて、どうしても一度来てみたくて」
「噂、ですか」
僕は一瞬その響きにネガティブな想像をしましたが、すぐに最近お客さまが増えている状況と照らし合わせて、自分の中で合点がいきました。
「ああ、朝潮さんたちのことですか?」
「い、いえ。あの……灰島さんのことです」
「僕の?」
今度こそ僕は目を丸くしました。自分が噂になっているなんて、そんなことはこの人生で一度も経験してきませんでしたし、絶対に良くない噂だと思わざるを得なかったのです。
ところが、身構えた僕の心を、彼の次の言葉が優しく和らげてくれました。
「困ったことがあれば『桔梗の庭』の主人に相談しろと。身内には話せないようなどんなことでも必ず親身になって聞いてくれる……商店街のおじさんたちがそう言っていました」
「そう……ですか」
僕はその言葉に呆けてしまいます。自分がそのように思われていたなんて、買い被りだとも思いましたが、一方で確かに胸が熱くなるのを感じました。
もともと深海棲艦の出現で荒れた港町に少しでも憩いをもたらしたくて始めた店です。僕自身、誰かの力になりたいという願望がありました。嬉しくないはずがありません。
「あの、図々しいですよね。ごめんなさい、俺……」
そう言って席を立とうとする藤野くんを、僕は呼び止めました。
「なんなりと話してください。力になれるとは限りませんが、聞くことだけが僕の取り柄ですから」
藤野くんは救われたような表情で立ち尽くしていました。僕が頷いて着席を薦めると、彼は座った途端、身を乗り出して熱のこもったこんな話をしてくれました。
この夏、先輩たちが引退して次のキャプテンを決めることになったんです。
それで前キャプテンが新キャプテンに推したのが、俺でして。それ自体は嬉しいことなんですけど、同時に不安でもあるというか……。
うーん、包み隠さず話しますね。早い話が、俺以外にもっと適任がいるんです。
そいつは先輩たちが居た頃からレギュラーでしたし、俺なんかよりずっと野球が上手くて。みんな、内心ではそいつがキャプテンじゃないことに不満を持っているんじゃないかって。俺がキャプテンなことに納得いっていないんじゃないかって、そう思うんです。
俺、辞退しようと思って。だけどコーチも先生も口を揃えて言うんです。お前以外にありえないって。それでも、どうしても苦痛なら日を改めて相談に来いと。
どうしたらいいんでしょう。俺には自信なんてないんです。ただ、もし期待されているなら応えたい。
みんなは……正直どう思っているんでしょうか。それを聞く勇気すらありません。
俺の一挙手一投足をみんなに見られているような、それでがっかりされているような気になって、練習にも身が入りません。
このままじゃいけないってわかってるんです。だけど本当にどうしていいのかわからなくて……。すみません。こんな話、急にされても困らせてしまうとは思うんですけど。
最初の勢いはどこへやら、藤野くんは徐々に下を向いていき、ついには完全に俯いてしまいました。
僕はと言えば、これは難題だぞと頭を悩ませています。
多くの人は僕に話すうちに少し気が楽になるのか、何か具体的なアドバイスを求めているわけではありません。ですが、藤野くんは今完全に行き詰まっています。話しただけで楽になったとは、彼の表情からもとてもそうは思えません。
どうしたものかと、僕が首を捻った時、視界に空色が舞いました。
見れば、いつの間にか藤野くんの隣の席に大潮さんが腰掛けているではありませんか。
彼女は僕の方を見ると、小さくウインクしました。
それで僕は、藤野くんのことを大潮さんに預けることに決めたのです。
「きみはどうしたいんですか?」
「うわっ! え、きみは?」
いつの間にか隣に座っていた少女に藤野くんはまったく気がついていなかったようで、急に話しかけられて動揺しているようでした。
そんな彼の様子に大潮さんはくすくすと品よく笑っていました。人を和ませる彼女の笑みは、次第に藤野くんの緊張も解いていきます。
「きみはどうしたいの?」
藤野くんが照れ笑いを浮かべたのを見計らったかのように、大潮さんはもう一度同じ質問をしました。
彼女が同年代に見えることもあるのでしょうか。僕に話してくれた時よりいくらか落ち着いた様子で、藤野くんはひとつひとつ言葉を探しているようでした。
「俺は。俺は、期待に応えたい。だけどみんなから期待されていないなら、俺がキャプテンを辞退してみんながまとまるなら……」
「そっか。きみは期待に応えたいんですね」
「話、聞いてた?」
藤野くんは呆れたように彼女に問います。
しかし大潮さんも満面の笑みを崩しません。もちろん、と頷いて、この問題のおそらく本質を突きました。
「きみはきっと怖いんですよ。期待を裏切ることが。自分のせいで不和が生じることが。だけど、きみはキャプテンを全うしなければ駄目です」
「……厳しいな」
藤野くんはまた俯いていました。
「たしかに俺は怖がりだ。だから、キャプテンには向いてないんだよ」
「キャプテンは、怖くてつらくて当たり前ですよ」
え? と藤野くんが顔を上げました。
そんな彼を迎えたのは、いつもと違う、真剣な表情の大潮さんです。
「みんながきみを見ています。つらくても俯くことは許されません。どんな時でも仲間を引っ張っていく牽引力がきみには求められるの。それでも」
大潮さんはそこで一度言葉を区切って、またあの笑顔を浮かべました。
「それでも、きみは言いましたよね。『期待に応えたい』って。それが唯一絶対のきみがキャプテンをやらなければならない理由ですよ」
ぎゅっと、藤野くんが拳を握るのがカウンター越しにも見えました。
大潮さんがその手を柔らかく握って包み込むのも、同様に。
「逃げずに立ち向かってください。挫けそうでも笑ってください。それがきみの望んだ道なんですから」
「……女の子にそこまで言われちゃ、やるしかねえよな」
藤野くんはもう俯いていませんでした。初めて見る、明らかにちょっと無理した笑顔で、だけど彼は歯を見せて笑いました。
「俺、キャプテンを引き受けるよ。俺がそうしたいから」
大潮さんは満足気に首を何度も縦に振って、藤野くんを激励していました。
その様子に、僕は不思議なことに少しだけ泣きそうになって、慌てて二人に背を向けました。おそらく、大潮さんのいつもの笑顔に哀愁のような色を感じ取ってしまったのが原因です。
きっと気のせいではないという確信めいた予感が、僕の心を大きな波の満ち引きのごとく揺らしました。大潮さんは艦娘です。僕の想像も及ばない大きなものを、その小さな身体に背負っていたのだと、愚かにもこの時になってようやく悟ったのです。
「きみもそうだったのかい?」
そのあと藤野くんがお帰りになって、他のお客さまも会計を済ませ、また新しいお客さまがいらっしゃっては去った頃。
すっかり寂しくなった店内で、僕は大潮さんに問いかけました。
大潮さんは澱みなく、まるで始めから準備していたかのように答えます。
「はい。大潮、今度は自分で選びました」
彼女はちらりと店内を掃除している朝潮さんを見遣ると、僕の手を引いて店の裏口を指さしました。
「少し外の空気を吸いませんか」
断る理由もありません。僕は一応、朝潮さんに少し店を空けることを伝えました。
そのときの朝潮さんの深々としたお辞儀には、単に了承以上の意味があったように思えます。
僕は大潮さんを追って裏口のドアを抜け、細い路地に出ました。
辺りはまだほんのりと明るく、それでも昼に比べてずっと涼しい空気が夜の訪れを感じさせました。遠くでカラスの鳴く声がして、無意識にそちらを見ました。
大潮さんもまたそちらを向いていることに気がついたのは、彼女が僕の前に立っていたからです。小さな背中が今にもどこかへ走り出しそうに思えて、僕は彼女の肩へ手を伸ばしました。
へ? と驚いたように振り向く彼女。
慌てた僕はとっさに、外は冷えますよ、なんてその場で思いついた言葉で取り繕います。
さっきのは思い違いや幻覚の類のようでした。大潮さんはいつも通りに大潮さんで、僕はそのことに驚くほど安堵していました。
しかし、その直後に大潮さんはにっこりと笑って、こんな脈絡のないことを言い出したのです。
「今のマスターさん、司令官によく似ていました」
そんなことを、目を細めながら彼女は呟きました。
僕はなんと答えていいものか、すっかり窮してしまいまして。
ただそうしたくて彼女の肩に黙って手を置きました。
彼女はまんまるな瞳で自らの肩と僕の顔を交互に見つめて、そうして急に物憂げな表情になって、僕の節くれだった手に自分の手を重ねました。
「本当に、困っちゃうくらい似ていますよ」
その声を聞いた僕には、彼女が今にも泣き始めるのではないかとさえ思えました。
ですが、結果として彼女は一滴の涙も流すことなく、物憂げにみえたのもそれっきりです。
「よーし! 大潮、元気充電完了です!」
なんだかすっかり元気になった大潮さんは、朝潮さんが心配するからと、僕の背を押してお店へととんぼ返り。その瞳にも声にも迷いの色はもう一切感じられません。藤野くんとの会話で一瞬見せた哀愁さえ、夏の宵の口へ置きさってきたかのようでした。
あるいは本当にそうだったのかもしれません。昔からこうして、ひとり、あるいは黒峰くんと二人で。背負ったものの重さに負けないよう、ほんの数秒心を休める時間を大切にしていたのかな、なんて。
無邪気に朝潮さんとたわむれる彼女を見ていても、僕にはそう想像することしかできませんが。
大潮さんは小さくても強い背中の持ち主だなと思わされた、彼女たちとの忘れられないエピソードの一つです。