言わぬが花、という諺がある。
あえて口にしない方が良いこともあるという例えだ。
「ねー、風雲。聞いてるの?」
目の前にいる悪友とでも言うべき存在にしてもそう。黙っていれば可憐な少女。口を開けば、やれ誰々と誰々が付き合っているだの、誰々が誰々に告白しただの、そういった下世話な噂話ばかり。本当にくだらない。
「聞いてるわよ、秋雲。で、今度は誰が誰に告ったって?」
だけどまあ、無碍にするには少しばかり彼女とは腐れ縁が深すぎた。私は手にしている本から少しだけ視線を上げて、秋雲へ問いかける。
「それがさあ、今回はビッグニュース! ねーねー、聞きたい? 風雲も興味あると思うなあ」
「へえ、それは珍しいことで」
「あー、疑ってるでしょ? いいのかなー、そんな態度で」
「やけにもったいぶるわね。別にいいのよ? 無理に話さなくて」
そう言って読書に戻ろうとする私に、あー嘘嘘謝るからさあ機嫌直してよ、と秋雲。そんなにも話したいのか。何が彼女をそこまで駆り立てるのか、私としてはそっちの方に興味がある。
とは言っても、別に秋雲だけがこの手の話に敏感なわけじゃない。
かつては深海との戦いにおいて最前線とされたこの基地も、人類がその制海権を取り戻すにしたがってその戦略的価値も並みに落ち、今では押し上げた前線への兵站輸送が主任務のありふれた拠点だ。
ここでは私達駆逐艦娘は馬車馬のごとく働いて、働いて、そして眠る。娯楽に興じる時間に乏しいから、必然的に会話という名の噂話の出し合いが主なストレス発散方法となる。ここ、食堂なんかはそうした場にうってつけだった。
しかし私のように一冊の本を何ヶ月もかけて読破することに意義を感じる子はたしかに稀かもしれないけど、それにしてももう少し生産的なことをすれば良いのにと思う。
「えーっと、じゃあ言うよ? いい?」
「いいわよ、早くしなさいって」
私はこの期に及んで焦らそうとする秋雲を不審に思いながら、話の先を促す。
どうせもう怪しい組み合わせの中でくっついてないペアの方が少ないのだ。きっと阿賀野さんと整備士の山田さんあたりがーー。
「提督が、秘書艦の飛龍さんにプロポーズしたんだって」
カタンと軽い音を立てて足下に落ちたのが、先程まで自分が手にしていた文庫本であることに気がつくのにやけに時間を要した。
周囲の目が急にこちらに向けられるのを肌で感じる。
「秋雲、今の話マジ?」
と望月が寄ってくれば。
「あー、やっとかあ。お似合いだもんな、あの二人」
とどこからともなく深雪もやってきた。
私はバレバレであることを恥じつつ、努めて何気ない様を装って本を拾いなおすと、深く息をついた。と同時に。
「そっか。まあ順当よね」
自分を納得させるようにそう呟く。
別に自分に機会があったわけでもない。そういう感情を抱いていたわけでもなく、ただ憧れのヒト二人が恋仲になった。それだけのことなのだ。
ところが事態はそう簡単に納得させてはくれなかった。
「それがさあ、フラれたらしいんだ。提督」
「はあ!?」
私は反射的に本を投げ捨て立ち上がっていた。今度こそ食堂中の注目が自分に集まったが、気づいた時にはもう遅い。私は顔が腫れ上がったかのようだった。
しーっと口に指をあてながら本を拾ってくれた秋雲に感謝の言葉さえうまく出ず、ただ黙って座り直す。視線はまだチクチク刺さっていたし、何事かと騒めきが起こっているのも理解していたが、他にどうしようもなかった。
「それにしても意外だなー。あの二人、すっかりデキててもおかしくないくらいなのに」
「だから、だと思うね」
「どういうことさ、秋雲」
「もう飛龍さんからしたら、提督は恋愛対象として見られなかったってこと」
「ああー、あるかもねえ」
「乙女心は難しいからなあ」
自分の外側で、話は進んでいく。自分を置いて、進んでいく。
私は切り取られた時間の中でただ二人を思い描いていた。
軽口を叩きあう二人。はにかんだ笑顔。共に見据える空。情熱的で惹きつけられる瞳。打ち上げ花火の音。身を寄せ合う。欠けたスクリュー。止まった時計の針。――不言色の背中。
「言わぬが花」
「え?」
唐突に現実に引き戻された。
「だからさ、提督も言わぬが花だったのかなって」
「まあ、結果論だけどな。これからいろいろやりにくいだろうし」
今さら神妙に首を傾げてみせる秋雲に、深雪も同意して腕を組み頷いた。
そういうものだろうか。
仮に艦隊運用に支障が出るとして、提督は飛龍さんを秘書艦から外すのだろうか。
できはしないだろうと、私は思った。
「風雲はどう思う? さっきから黙ってるけど……あ」
私に話を振ろうとした秋雲を、基地内放送が遮った。休憩は終わり。遠征班交代の時間だ。
「ま、私達が心配しても仕方ないんじゃない? それより急ぐわよ。日が落ちる前には帰りたいでしょ」
そう言って僚艦達を急かした。秋雲達も腑に落ちなさそうにしながらもその言葉に従う。私はタイミングの良さに感謝していた。
言わぬが花。
あるいは、本当にそうだったのかもしれない。提督も……そして私も。
その日の遠征はそわそわしてまったく集中できなかった。
橙色に世界が染まる夕暮れ時、私は宿舎近くの弓道場を訪れていた。
まだこの基地が前線拠点としての役割を果たしていた頃の名残りで、もう飛龍さんしか空母艦娘がいない今も、ここは大切に保管されている。
私自身ここでは古参の艦娘だ。かつて一航戦と二航戦の四人が凌ぎを削った時代も見てきただけに、誰も居なくなったこの場所に一抹の寂しさを覚えるのも事実。
あの頃は今ほど出撃機会は多くなかったけれど、内容が濃かった。有り体に言えば実戦に身を投じていた。硝煙の匂い渦巻くあの時期を、ここに来ると思い出す。
私は訓練用の弓を手に取り構えた。真っすぐに数十メートル先の的を見据える。
鬱憤を晴らすように空へ放った矢は、綺麗な放物線を描くも的を大きく外した場所へと落下した。
ふっと息を吐く。駆逐艦娘の自分が見様見真似で的に当てようなどとは初めから思っていなかった。これはただの……そう、ただの気紛れだ。
「平常心」
そんな冒涜にも似た行為を後ろで見守っている人がいることに、私は途中で気がついていた。気がついていながらやめはしなかったのだ。
「飛龍さん」
私は振り向き、声の主の名を呼んだ。彼女は腰に手を当て、困ったように微笑んでいる。
「力み過ぎだよ。まあ余計なお世話かもしれないけど」
「そうですね。私には、必要ない技術なので」
「あっ、生意気」
飛龍さんはそう言いつつも、気分を害した様子もなく、優しく私の頭を撫でる。
「ちょっとやめてくださいってば、もう」
「まあそう言わないでよ。あんまり冷たいと飛龍さん拗ねちゃうぞー」
背後から寄りかかるようにして身を預けられ、私は危うく弓を落としそうになる。
頭のてっぺんに飛龍さんの顎が乗っている感覚。まったく、大きな猫じゃあるまいし、自分達の体格差を考えて欲しい。
こちらは艦娘として再び生まれたその時から、一生届かないであろうその背中を見上げ続けているのだ。いつまでも並び立てないことに歯を食いしばりながら、安堵しながら、私はずっと複雑な感情を携えて貴女を見てきたのだ。
私はぐいと頭を上げて飛龍さんを引き離すと、弓を彼女に差し出した。
「ん?」
「気が変わりました。ご指導をお願いします」
私は努めて挑戦的な視線を送った。それが届いたのかはわからない。だけど飛龍さんは確かに弓を受け取ってくれた。
「いいよ。だけどもう日が落ちるから、一回だけね」
「ありがとうございます」
「それと、もし的に当たったら私の言うことをなんでも一つ聞くこと」
「はい……あ、え? それは」
あまりにも私に不利じゃありませんか、という言葉は、突如ピンと張り詰めた空気に押し潰されて消えてしまった。
飛龍さんが弓を引いた。そこからはすべてがスローモーションのように瞳に焼き付いていく。何度も何度も見た光景。何度も何度も抱いた憧憬。それが再び目の前に。
あの日から、本当に何も変わっていないかのように。
夕陽の色が青く染まる。
出撃する誇り高き背中を、私は見送った。
不言色の龍を、見えなくなるまで、ずっと。ずっと。
そう、すべきだったのだ。
「外しちゃったかあ。柄にもなく格好つけるもんじゃないなあ」
ふと、飛龍さんがそう呟くのが聞こえた。
言葉の意味も考えぬまま、視線を奥の的へと送る。矢は刺さっていなかった。
「……ごめんなさい」
私は思いつくままに謝っていた。涙がこぼれ落ちる。
「風雲?」
「ごめんなさい。私、悔しくて」
「何言って……ってどうして泣いてるの!?」
「だって、きっと全部私のせいなのに。貴女はいつもそうやって、何でもないように振る舞って……」
そこからは、ただただ懺悔の言葉を繰り返した。あの日、一つの歴史を人類が乗り越えた日、意気揚々と出撃しようとする飛龍さんの艤装のほんの小さな異変に私が気づいてしまったこと。それが原因で飛龍さんの出撃が叶わなかったこと。その日以来、飛龍さんの艤装は眠ったように応えてくれなくなったこと。――貴女が私を責めないこと。
飛龍さんは黙って聞いてくれていた。私の背中をさすりながら、まるでつらかったものを全て吐き出させてくれているように。だけど本当につらいのは、貴女でしょう。
それだけは、言葉にできなかった。
しばらくしてもう嗚咽しか漏れなくなった私を、飛龍さんは一度だけ抱きしめてくれた。それから休憩用のベンチに私を座らせて、まるで何事もなかったかのように何が飲みたいか尋ねてきた。俯いたままの私の耳に、ジャラリと小銭の音が届く。断っても無駄だと知っていたから、私は素直に温かい緑茶を頼んだ。
自販機から飲み物が落ちる音が二度響いて、飛龍さんは私にペットボトルを手渡ししてくれた。彼女自身も温かそうな缶コーヒーを手に、静かに私の隣に腰掛ける。
鼻歌まじりに両手で包んだ缶を見つめている飛龍さんに、向こうから何か話してくれることを期待している自分がひたすらに図々しく思えて、私は覚悟を決めた。
「飛龍さん」
「んー?」
「飛龍さん、その、好きですよね、提督のこと……」
私は慎重に、だけどずいぶん大胆なことを聞いていた。昼休憩からずっと気になっていたことだ。だけど、正直に言って飛龍さんがまともに真実を話してくれるとも思っていなかったから、うん、と即答されて、つい隣を凝視してしまった。
そこにあったのは悪戯っぽい彼女の笑み。
「風雲のことと同じくらいね」
そう言って飛龍さんは立ち上がると、一度だけ大きく伸びをした。落ちかけた夕陽が、海の向こうからその姿を照らしつけ、気づけば私はその大きな影の中にいた。
飛龍さんがこちらを振り返る。見慣れた優しくて、だけど容赦のない瞳が暗がりの中でも印象的に光って見えた。
「私はね、風雲。もう終わった存在なんだ。あの人の隣には相応しくないんだよ」
私は目を見開いた。そこにいたのはいつもの飄々とした飛龍さんではなく、私がある意味望んだ等身大の一人の女性だったのだ。そんなことありません、と話す声が震えていることを、私は自覚しながら止められなかった。
「普通の人間の女の人ならともかく、私ってほら、艦娘でしょ? 何のためにヒトの姿でこの時代に生まれ直したのか、それは各々が答えを見つければいいと思うけど、私は過去を乗り越えるためだって思ってた。ううん、違うな。今も思ってる」
私はいつもと違う飛龍さんに戸惑った。その上ついに来た審判の時に、緊張を隠せない。だけど、覚悟だけは固めてきたはずだと自分を奮い立たせた。
「私も……そう思います。そう思っていながらあの時貴女を止めたんです。貴女が乗り越えるべき過去も、その先の未来も、永久に奪ったんです」
言ってしまった。認めてしまった。
飛龍さんは静かに頷いて、寂しそうに言葉を紡ぐ。
「そう。結果的にはその通り。私はあの一回の出撃のための存在。だからもう、私には何もないの」
胸が、締め付けられる。どうしてだろう。どんな攻め口も受け止める覚悟があったはずなのに、いざ貴女に許されないと突きつけられたら、私は怖くなってしまった。
そんな私の心中を察してか、飛龍さんは一度話をやめ、静かに微笑んだ。手を私の頭に伸ばし、躊躇いがちに撫でてくれる。このままこの優しさに溶けてしまえば楽になれる気がした。だけど、同時にそれは嫌だとも思った。
「飛龍さん、私を恨んでいるんじゃありませんか」
飛龍さんはまるで私の問いを予想していたかのように微動だにせず、ただ目を閉じて呟いた。
「言ったでしょ。風雲のこと、提督と同じくらい好きだって。でも」
そこでしばし間があった。飛龍さんは葛藤しているように見えた。
「でも?」
「……ううん。私が恨んでるのは、大嫌いなのは、私自身だよ」
長い長い静寂が訪れた。私は、何も言ってあげられない自分の無力さが悔しくて、血が出るほど唇を噛み締めていた。それでも、言葉にできなければ自己満足と同じだ。
飛龍さんはすっかり暗くなった辺りを見渡すと、急にいつもの調子に戻って私の手を引いた。
「暗い話しちゃったね、ごめん。ね、風雲。久しぶりに一緒に夕食、食べに行こっか」
そう言って歩き出す。私は後ろをついて歩きながら、見慣れたその背中が、今日は一段と小さく見えることに気づいたのだ。
「飛龍さん」
「なに?」
私は意を決して、だけど妙に自然に自分から発せられる声に驚きながら、意趣返しとばかりにこう話した。
「私も……私が大嫌いです。飛龍さんが飛龍さんを嫌いなのと同じくらい」
飛龍さんが一瞬驚いたように見えたのは気のせいだろうか。ただ、気づいた時には彼女は背中を向けていて、一言、生意気、とだけ私には聞こえてきたのだった。
翌朝、執務室を出たばかりの私は秋雲によって連れ去られ、食堂にいた。
「風雲! 連日のビッグニュースなんだけどさ、なんと阿賀野さんが」
「提督に告白した」
「いやいや、そうじゃなくて。整備士の山田さんと――」
「私が、よ。たった今、してきた」
「はへ?」
固まった秋雲の反応があまりに予想通りすぎて、気づけば私は笑っていた。
「友達だから話したんだからね」
だけど釘を刺しておくのも忘れない。別に真実が広まるのは構わないけれど、過剰に注目を浴びるのは苦手な性分でもある。
秋雲は急に神妙な面持ちになると、きょろきょろと周囲を見回し、それから声を落として聞いてきた。
「マジ?」
「マジよ。大マジ」
「それで……結果は?」
少し怖いくらい秋雲が顔を近づけてくる。その瞳には、好奇心と心配の色が乗っているように思えた。
私は一度だけ大きく深呼吸して答えた。
「フラれたわ。提督はまだ飛龍さんのこと諦めきれないって」
「……そっか」
「なに柄にもなくしょげてるのよ。フラれたの私なのに」
私は変な気遣いは無用だと言わんばかりに、秋雲の背中を二度叩いた。
その行為は秋雲には強がりに見えたかもしれない。だけどさすが長年の付き合いだけあって、私の想いは汲んでくれたようだ。私に向かってにかっと笑い、小突き返してきた。
「しっかし提督の失恋直後を狙うなんてちゃっかりしてるじゃん」
「そうね。上手くいくと思ったんだけどな」
そうしていくらか軽口を叩き合うと、私もなんだか気持ちが落ち着いてきて、逆に、少しだけ悲しくなった。
「憧れてたから。ずっと」
「うん」
「好きだったんだあ、私」
「仕方ないよ」
「でもこれでようやく前に進める気がする」
「お、その意気だ」
「へへ……私、秋雲みたいな友達がいて良かった」
「そりゃ光栄なこって」
「なんだかいつもと逆ね、私達」
「いつも通りだったらもっと心配してる」
「そっか。……ありがと」
「どういたしまして」
自然に流れ出たひとすじの雫を周りの人達に気付かれないよう、悪友と二人で共有した。
きっと私は今日という日を忘れない。私は私が一歩踏み出したことを誇りに思う。
そして願わくば、大きく踏み出す機会すら私が奪ってしまった不言色の龍、彼女が再び飛び立てる日がやってきますように。
私の憧れのあの人が、心から笑える日がきますように。
そのためなら、私は――。
ふと、窓の外を見た。必死の形相で走る提督の姿。そしてその先の、見慣れた背中。
明日のニュースが楽しみだ。私は、初めて噂話の時間が待ち遠しく感じていた。
終わり