はじまりのおはなし

 今朝の目覚めも最悪だった。
 どんな夢を見ていたのかは忘れたが、じんわりと全身に広がる汗と濡れた襟首、重い呼吸が落ち着かない。ただひたすらに人恋しかった。

 時計の針を見やると、かろうじて朝を指す時間である。窓の外はまだ薄暗く、ほんのりと靄がかかっていた。

 誰もいない通りを見下ろしていると、まるで村に、世界に、自分ひとりだけ残されたような気持ちが襲ってくる。幻覚だ、妄想だと言っても寝起きの頭は理解してくれそうになかった。

 必死に思考を無にしようと目を瞑り、大丈夫だと言い聞かせ――そうしておはようの声を聞いた。
 心臓が跳ねた。視界が急にクリアになり、窓の外を再び映し出す。先程はいなかったそこに、綺麗な赤毛を揺らして見慣れた少女が立っていた。大きなバスケットを抱えている。

「ルトも起きててよかった。早すぎたかなって心配してたの」

 そう言ってセルキーの少女――フィ・ナはにこりと笑った。
 その笑顔がルトナスを現実へと引き戻し、不思議といつもどおりの返事ができた。

「待ってて。すぐ準備するから」

「ううん。先にいつもの場所で待ってるね」

 フィ・ナはよいしょと自分の胴体ほどの大きさのバスケットを抱え直すと、器用にその場でクルリと一回転した。

「わたしたまごサンドが食べたいな」

 いたずらっぽくこちらにウインクし、そして返事も待たずに駆けていってしまった。
 取り残されたクラヴァットの少年は、けれど、もうひとりだとは思わなかった。


 村外れの大きな樹の下。
 クリスタルの加護の届く領域にかろうじて身を寄せているその場所こそ、ルトナスとフィ・ナの居場所であった。

「みつからなかった?」

 根元まで行くと、先に来て待っていたであろうフィ・ナが、大きな根っこの隙間から顔を覗かせて聞いてきた。

「たぶん。大丈夫」

 ふと、道中で雑貨屋のエルナおばさんと出会ったことを思い出したが、ここに来ることを悟られはしなかったはずだ。
 なにせクリスタルの加護から一歩外に出たが最期、ヒトは生きてなどいけないのだから、こんな危険な場所に子供が行くのを黙って見過ごすはずがない。

「……本当に?」

 言い淀んだルトナスに気づいたフィ・ナが琥珀色の瞳を細めて疑いの声をあげる。しかしその声はどこか楽しそうでもあり、誰かにみつかる不安よりも、今この場でルトナスを困らせることが目的のように思えた。

「本当に本当。はい、朝ごはん食べようよ」

 これはいけないと、ルトナスは用意してきた二人分の朝食を鞄から取り出す。フィ・ナは時折、こういう意地悪をしてくるのだ。

「わあ。ありがとう!」

 今度は目を見開いて、心底嬉しそうに笑うフィ・ナ。ルトナスは彼女のコロコロと変わる表情がおかしくて、気づけば一緒に笑っていた。

 和やかなままに二人だけの朝食会が始まる。地面も根っこも少し湿っていたが、風が涼やかなので不快感はなかった。不器用にちぎったパンにナイフで切れ目を入れ、焼いてきた卵を挟み込むと、いっせーのーで口に放り込む。パンパンに膨れたお互いの顔を見て、お互いに笑いを堪えるのが大変だった。

 大樹は二人の代わりに葉っぱを揺らし愉快そうに笑う。それはまるで優しく見守ってくれているようでもあった。

「そうだ。わたしも頼まれてたもの、ちゃんと持ってきたよ」

 食事も終わり、木製の筒に入れた水を飲んでいると、フィ・ナがぱちんと手を合わせて言った。どうやら今思い出したらしい。

 大きなバスケットから数冊の本を取り出す。それを見たルトナスは自然と顔がほころぶのを感じた。

「ありがとう!」

 本を受け取って、すぐさま根っこに寄りかかり項をめくった。
 読書は冒険だ。本は新たな場所を見せてくれる。村の中の限られた世界しか知らないルトナスにとって、まさにそれは真理であった。

「変わってるよね、ルトも」

 嬉々として読み進めるルトナスの隣で、フィ・ナは別の本の表紙を指でなぞりながら、少し冷めた声で言った。

「そんなに面白いの? これ」

「えっ?」

 しまった、とルトナスは思う。本の物語に没頭しかけていて、彼女の声を半分ほどしか聞いていなかった。しかしフィ・ナはそれを咎める気も無いようだった。彼女としてもほとんど独り言のようなものだったのだろう。

「わたしも文字が読めたら、ルトともっとお話できるのかな」

「村長さんは教えてくれないの?」

「知りたかったらいつでも教えるって」

「フィーは知りたくないの?」

「うーん、わかんない」

 そう言ってフィ・ナは静かに目を伏せた。

 フィ・ナは元々はこの村の出身ではない。ちょうど半年ほど前に家族と共に村を訪れた。周りの大人達は『ぎょうしょうにん』と呼んでいたと思う。
 やがてフィ・ナと一緒に来ていた人達がいなくなり、なぜか彼女だけが村長さんの家に残った。ルトナスは詳しい事情を知らなかったし、周りの大人達も教えてはくれなかった。

 それどころか事情を知っていそうな人達は、みんなフィ・ナに冷たかったのだ。そういう背景があったから、ルトナスもフィ・ナに直接事情を聞くことは良くないことだと思っていた。

 それに――。

「ねえ、ルト」

「なに?」

「ルトは私が本を読めたら嬉しい?」

 突然の申し出になぜか吹き出してしまう。フィ・ナは心外そうに顔を歪めて反論した。

「なにがおかしいの」

「ごめん。だって……あはは」

 いつも、彼女は自由だと感じていた。それは、外から来た者への羨望だったかもしれないし、彼女の目まぐるしい感情表現がそう思わせたのかもしれない。ただ言えることは、フィ・ナがルトナスのために何かを頑張ろうというのが、嘘ではなくとも似合わない行為であるということだ。

「もう。真剣なんだよ、わたし」

「ほんとにごめん。でも、ぼくも村長さんと同じ考えだな」

「え?」

「フィーが覚えたかったら、覚えればいいと思う」

「……そっか」

 そう呟く彼女はどこかほっとしたような顔つきだった。……かと思えば、すぐに気の引き締まった表情になって、こちらを見つめた。

「わたし、文字覚えたい。ルトと同じものを見たいから」

「うん。ぼくもそれが嬉しいな」

 ルトナスは彼女と居るのが何よりも好きだった。フィ・ナの事情も、大人達の考えもわからないけれど、どんなことがあっても、ただひとつこの気持ちだけは本物だと信じられるのだ。

 それから日が落ちるまで、二人で他愛のない話をしたり、お昼寝したり、それぞれに別のことをしたりした。それは二人のいつもの日常であった。

 辺りが暗くなって、誰かにみつかりにくくなってから、二人で帰路に着いた。別れ際になってルトナスが声をかける。

「文字のお勉強するんだったら、明日からしばらくあそこで会えないね」

「あっ!」

 急にフィ・ナが素っ頓狂な声を上げて、ルトナスまで驚く羽目になった。

「ど、どうしたの?……フィナ?」

 苦笑しながらフィ・ナの様子を伺うと、彼女は口元を抑えて青ざめているように見えた。
 突然の変化にどう声をかければ良いのかわからず、ルトナスはおろおろしてしまう。なにかまずいことを自分が言ってしまったのではないかと、不安を覚えずにはいられなかった。

 そうこうしていると、遠くの灯りに人影が見えた。エルナおばさんがこちらに気づいて手を招いている。もう村の中心近くまで戻ってきていた。

「わたし……あそこに居なきゃ駄目なの」

 沈黙を破り、隣でフィ・ナが口を開いた。

「ごめん。わたし、やっぱり文字覚えられない」

「フィー? 急になんで……」

「ごめんっ」

 そう言うと、フィ・ナはルトナスともエルナおばさんとも違う方向へ駆け出した。慌てて呼び止めたが返事はなく、追おうとしたところでおばさんに止められた。

 こんな遅い時間まで子供どうしで遊んでいてはいけないと叱られ、家まで送ると有無を言わさぬ口調で背中を押された。
 ルトナスはフィ・ナが心配だからと彼女を追おうとしたが、向かった方向は村長さんの家だから大丈夫だとおばさんに言い含められ、結局従うほかなかった。

 やるせなさと不安を抱えて、ルトナスは家に帰ってきた。エルナおばさんが去り際に何か言っていたが、あまり覚えていない。
 着替えも食事もしないまま、二階のベッドに倒れ込んだ。思えば昼からなにも食べていない。フィ・ナといる時は感じていなかった疲労感と空腹感が同時にやってきて、ルトナスはそれらすべてを追い払うように目を閉じた。

 明日になったら理由をちゃんと聞きに行こうと、それだけ決意して夢の中へ意識を渡す。

 きっと今夜も悪夢を見る。
 まだ幼い少年は、他に誰も居ないその家で、静かに眠りについた。

 ルトナスは英雄の息子である。

 彼の父は早くに亡くなったが、母はクリスタルキャラバンとして一昨年まで村のために戦い続けた。そして、今は彼女もこの世にいない。

 魔物との戦いの中、ルトナスの母は劣勢を悟り、彼女の娘レインとクリスタルケージだけを逃した。クリスタルの加護を失った彼女と長年の相棒は、二人きりで身を焼き魂を削る瘴気の中でなお奮戦し、レインへの追撃を封殺したという。

 生き帰ったレインも大怪我を負ったが、彼女らの尊い犠牲のおかげで、この村は今も存続している。
 残された5歳に満たないルトナスにも、もう母と会えなくなったことは理解できた。1年のほとんどを村の外の世界で過ごし、ここ数年で数えるほどしか会っていなかった母ではあったが、それでも彼が心の軋む音を知るに充分だった。

 そして姉のレインの行動もルトナスに追い打ちをかけた。瀕死の状態から奇跡的な回復を見せた彼女は、周囲の形だけの反対を押し切ってクリスタルキャラバンへ復隊したのだ。
 この村に戦える者は多くなく、なにより彼女の強い意志がそう決断させた。その瞳は憎しみを湛え、ただ一人の弟の存在さえ彼女を繋ぎ止める鎖足り得なかったという。

 残されたルトナスのことを村人達は憐れんだ。それは偽善や無責任とも取れる感情ではあったが、ルトナスにとって生活上必要な支えでもあった。

 彼は英雄の息子として村人達に生かされた。生計を立てられずとも、寝る場所、温かい食事、教養、すべてを与えられた。それは、ルトナスをより孤独の縁へと追いやる行為でもあった。

 誰もルトナスを見ていなかった。ルトナス自身も誰のことも見ようとしていなかった。
 フィ・ナが村に現れるまでは。

 翌朝目覚めたルトナスは、まっすぐに大樹のもとへ足を運んだ。

 しかしそこにフィ・ナの姿はなく、朝靄のかかった樹がやけに不気味に見えるのみであった。
 思わず立ちすくんだルトナスは、踵を返してすぐに村長さんの家へ向かおうかと考えた。しかしすぐに入れ違いになってしまうかもしれないという不安も頭を過る。どちらが早く彼女に会えるかと思考を巡らせたが、当然合理的な結論など出るはずもなく、結局その場にしゃがみこんで待つことにした。

 鞄から昨日フィ・ナに貸してもらった本を取り出す。流通が極めて難しいこの世界において本はとても貴重なものだ。これを持ち出したことで村長さんに叱られてはいないだろうかと、新たな不安も生まれたりした。

 早くフィ・ナの顔が見られれば、こんな不安も吹き飛ぶのに。ルトナスは本のページを無造作に捲り、ただただ無心で文字を追った。しかし今日にかぎって本はルトナスを冒険へと連れて行ってはくれなかった。
 待つことには慣れているつもりだったが、いつの間にかフィ・ナといない時間がとても長く感じるようになってしまった。

 永劫にも思える時間が過ぎ、太陽はほぼ真上へと動いた。それでもフィ・ナが現れる様子はなく、ルトナスは我慢の限界とばかりに駆け出した。


 村のゲート付近まで戻ってきたところで、同い年のセルキーの少年にみつかった。

「あっ、おい! 探してたんだぞ」

「えっ。探してたって……ぼくを?」

 彼――ガル・トは血相を変えてこちらへ走ってきた。ルトナスの肩に右手を乗せ、荒い息を整えている。

「おまえ……あいつと、仲良かったから……もう、どこ行ってたんだよ」

「あいつって……?」

「村長のところのあいつだよ! なんか、ル・ジェのやつと取っ組み合いの喧嘩したってんで今――あ、おいっ!」

 途中まで聞いて、そこからは勝手に体が動いていた。ガル・トの脇をするりと抜けると、他に目もくれず村長さんの家へと全速力で走る。

 フィ・ナは自由奔放ではあったが、本気で他人を傷つけるような子ではなかった。まして取っ組み合いの喧嘩など……。ふと、村の人々がフィ・ナに向けた冷たい視線を思い出していた。
 ル・ジェは年上のセルキーの女の子で、勝ち気な性格ゆえに半ば同年代のリーダーのような存在であった。ルトナスも何度か話したことがあるが、その時の機嫌で大きく印象が変わるような、そんな子だったと記憶している。

 もし――、もしもル・ジェが自分の知らないフィ・ナの事情を知っていたとしたら。もしそれが原因で喧嘩になったのだとしたら。

 ルトナスは胸がきゅっと苦しくなるのを感じた。それは決して、息継ぎもせず走っているせいだけではなかっただろう。苦しくて、苦しくて……体の力が抜けていって……。

 視界が暗転した。

「ルト! ルト!」

 誰かの泣き声が聞こえた。薄っすら視界に光が戻ってくる。見慣れた赤毛が揺れた。

「フィー!!」

「きゃつ」

 求めた少女が目の前にいると認識した瞬間、起こした頭が彼女とぶつかり、お互いに頭を抱えることになった。

「もう! なにするのよ!」

「ごめん……。って、フィー! 大丈夫なの!?」

 何が……と涙目で問い返す彼女にはいくつかの包帯が巻かれていた。ルトナスは再び胸の奥が締め付けられるのを感じる。

「喧嘩したって聞いて……。それで」

「うん。したよ?」

 あっけらかんと答えるフィ・ナに、逆に苛立ってしまう。

「したって……! そんな怪我までして、なんで――」

「あらあら。落ち着きなさい」

 混乱するルトナスを穏やかな声が制した。ルトナスはそこで初めて彼女の存在に気がついた。

「マレードおばあちゃん」

 村長さんの奥さんであるマレードおばあちゃんは、やれやれと頭を振って、薬草を塗ったきつい色の布をルトナスの頬に押し当てる。

「いっ」

「痛いだろう。ずいぶん派手に転んだようだからね」

「転んだ……ぼくが?」

 ようやく状況が頭に入ってきたルトナスは、ここが村長さんの家であり、走っている最中に意識を失って転んだ自分が運び込まれたのだと悟った。

「もう。心配したんだからね」

 フィ・ナが腕を組んでぷりぷりと怒っている。それを言うならとルトナスも声を大きくした。

「フィーが喧嘩したって聞いて、ぼく、すごく心配したんだよ?」

 実際怪我もしてるし、とフィ・ナの腕を指差すと、今度こそ彼女の威勢もどこへやら引っ込んでしまう。

「お互いに心配をかけたんだねえ」

 マレードおばあちゃんだけが笑顔だ。

「二人とも、お互いにごめんなさいってしないといけないね」

 すっかりシュンとした様子のフィ・ナも、落ち着いて自己嫌悪が襲ってきたルトナスも、おばあちゃんの声に素直に従った。ごめんなさいと謝って、それから急に恥ずかしくなって二人同時に小さく笑う。

「子供は転ぶものだし、喧嘩もするものよ。ちゃんと謝ったら、気を落とす必要はないからね」

「うん……。ありがとうマレードさん」

 励まされたフィ・ナは今度は困ったような笑顔でおばあちゃんの方を向いた。それを受けたおばあちゃんの顔が少し寂しそうだったのは、ルトナスの救いにもなった。

「私は追加の薬を持ってくるから、二人ともおとなしくしているんだよ」

 そう言い残しておばあちゃんが部屋を出ていき、フィ・ナと二人きりになる。

「優しいよね。マレードさん」

「うん」

「馬鹿だなあ、わたし」

 フィ・ナの声が少し湿っているように感じ、ルトナスは慌てて励ました。

「マレードおばあちゃん、嘘はつかないから、本当に怒ってないと思う」

「……へへ。ルトも優しいね」

 目に袖を当て、涙を拭くような素振りにドキリとしたが、服の向こうから現れたのは、もういつものフィ・ナの顔であった。

「ちゃんと説明したほうがいいよね?」

「……うん。フィーが嫌じゃなかったら」

「嫌……じゃないけど」

 そう言うとフィ・ナは少し考え込むような仕草を見せた。

「うん。じゃあ明日の朝、またいつもの場所に来て」

 少しだけ声を落として、フィ・ナが囁いた。

「考えをまとめる時間が欲しいの。きっと、これが最後だから。あそこが良い」

 うんと自ら頷いたフィ・ナは、なにか企んでいるようにも見える。

「……わかった。たまごサンド持っていくね」

 彼女が何を考えているのかに対して一抹の不安こそあれ、ルトナスも努めて笑顔を見せる。それに対してフィ・ナが笑い返してくれたことが、何より嬉しかった。

 翌朝になり、ルトナスは再びあの樹のもとへ足を運んだ。
 フィ・ナは今度こそそこに居た。ロングヘアーを一本にまとめ、前髪に綺麗な羽飾りをつけている。雰囲気も少し大人っぽくなったように感じて、ルトナスは内心ドキッとした。

「おはよう! ルト」

 こちらに気がついたフィ・ナが笑顔で手を振る。朝の日差しがキラキラと輝いて、その中にいるフィ・ナは、例えるなら物語の中の天使のように思えた。

「お、おはよう」

 ぎこちなく挨拶を返すと、ルトナスは彼女に歩み寄った。顔色が伺えるほどの距離になった時、ふと彼女が悪戯っぽい笑顔を浮かべていることに気がつく。

「ねえ、似合ってる?」

 そう言うとフィ・ナはその場でくるりと一回転。しっぽのような髪の束が柔らかに空を舞い、丈の長いスカートがふわりと踊った。よく見ればそれはクラヴァットの民族衣装で、おそらくはマレードおばあちゃんにもらったのであろう。

「うん。すごく似合ってる」

 今度は自然と言葉が出た。言ってしまってからなぜか急に恥ずかしくなったが、どうしてかはわからなかった。

 フィ・ナはありがとうと言って微笑むと、樹の根に腰掛けた。隣のスペースをぽんぽんと叩いている。促されるままに、ルトナスも席についた。

「じゃあ、話すね」

 こほんと、わざとらしく咳払いしてから、フィ・ナは遠くを見つめて語りだした。

「わたしのお父さんとお母さんはね。泥棒なんだって」

 そう言って、自分が置いていかれた夜の話をしてくれた。ちょうどこの場所で別れたこと。必ず迎えに来ると言ってくれたこと。村の人達に突然捕まえられて怖い思いをしたこと。聞いているルトナスさえ心が痛む内容を、どこか淡々と語ってくれた。

「それでね。わたし、お父さんとお母さんのこと信じてたの。……ううん、たぶん今も、半分くらいは」

 彼女が依然として遥か虚空を見つめる瞳に何を映すのか、ルトナスにも察することができた。寂しそうな横顔を、どうにかしてあげなければと強く思う。だけどこんな時のための読書であり教養のはずが、まったく言葉が浮かばなかった。それでも何かを伝えなきゃと、とっさに握ったのは彼女の左手。

 フィ・ナはその感触に最初は驚いたようだった。だけどこちらを振り返るでもなく、目を閉じてじっとしている。半ば勢いで行動したルトナスも、それを見て安堵を感じた。今度の沈黙は、二人にとって心地良いものだった。

 どれくらい時間が流れただろうか、フィ・ナが今度は隣のルトナスを見据えて話し始めた。

「昨日、本当はここに来るつもりだったの」

 フィ・ナは申し訳なさそうに空いた手で頬をかきながら続けた。

「でも途中でル・ジェにみつかっちゃって」

「なにか言われたの?」

 ルトナスは嫌な予感がして、ついそう訊ねてしまった。さきほどの話を聞いたばかりだったから、致し方ないことかもしれないけれど。
 だけど返ってきた答えは、予想とは少し違うものだった。

「うん。どうせまた村外れの林に行くんでしょって。危ないからやめなさいって」

「へ?」

「バレてたんだよね。びっくりした」

 これにはルトナスもいろいろな意味で驚いた。というより、それでも尚ここに居るのはとても危険な気がしてきたのだ。

 しかし、その考えをフィ・ナは少し訂正する。

「あ、でも皆が知ってたわけじゃないよ。ル・ジェは自分しか知らないって言ってて。それで――ほら、わたしルト以外とほとんど話したことないから」

 そこでフィ・ナは心底バツが悪そうな顔をして、言い淀みながらもなんとか言葉を続けた。

「無視して行こうとしちゃって……そうしたら腕を掴まれて、どうしても行くなら大人達に知らせるって言われて」

 心なしか、フィ・ナの声がだんだん小さくなってきた。

「わたし気が動転してて、かまわないでって言っちゃって。あそこでお父さんとお母さんを待つんだって、ル・ジェを振り払って」

 フィ・ナの声が消え入りそうになったから、ルトナスは自然と顔を近づけることになる。それに気づいたフィ・ナはコテンと頭を垂れて、ルトナスに身を預ける格好を選んだ。

「そしたらね。『迎えに来るわけないわ』ってル・ジェが言うの。わたし、頭の中が真っ白になって。それで――」

 ルトナスは息を呑んだ。ル・ジェは裏表のない女の子だけど、そんなことを言う必要はないと感じた。少しだけ、彼女への怒りが生まれた、その時。

「殴っちゃった」

「……え?」

「だから殴っちゃったの!」

 急に大きな声を出すものだから、ルトナスは鼓膜が痺れるのを初めて経験することになった。
 吹っ切れたのか、その時を思い出して興奮したようにフィ・ナは話し続ける。

「最初自分が何をしたのかわからなくて、次にちょっと怖くなって、どうしたらいいかわからないでいたら、今度はル・ジェに殴り返されたの」

 ルトナスは拍子抜けしたやら、それはそれで心配になるやら、ル・ジェに申し訳ないやらで、声も出ずに口をあんぐり開いて固まってしまう。

 そんなルトナスに気づいていないのか、フィ・ナの話はどんどん進んでいく。

「そこからはもうむちゃくちゃ。わけがわからないまま二人で叩いて蹴って転んで……。大人のヒトが来て止められるまでずっとやってたと思う。それでね」

 紅潮した頬をさらに赤らめて、フィ・ナは心底楽しそうに言った。

「ル・ジェったら、止めに入ったヒトを蹴り飛ばしてこう言うの『私の喧嘩に余計な口を挟むな』って」

 ニコニコと笑ってそう言いのけるフィ・ナに、根っからの『温の民』であるルトナスはたじたじになってしまう。そういう一面は今まで知らなかったと心の中で思ったら、見透かされたようにフィ・ナも同じことを言ってきた。

「わたし、今まで喧嘩なんてする友達がいなかったから。なんだかちょっと嬉しかった。仲間に入れてもらえたみたいで」

 ぴょんっと太い根っこから飛び降りるフィ・ナ。ルトナスも慌てて続くが、バランスを崩して転んでしまう。

「変……かな? 変じゃないよね」

 手を差し伸べながら訊いてくるフィ・ナに、正直『変』と答えそうになったが、ぐっとこらえて『変わってるかも』と言った。

「ふーん?」

「あっ、ちょっと」

 それを聞いたフィ・ナと来たら、差し伸べてくれていた手を急に引っ込めるものだから、ルトナスはまた背中から倒れてしまった。いてて……と顔を持ち上げると、そこには悪戯っぽい彼女の笑顔。

「宣言します」

 フィ・ナがビシッと天を指差して、嬉しそうに言葉を繋げていく。

「わたしは村の一員になりたい。皆と仲良くなって、喧嘩して、笑い合えるようになりたい」

 朝日を背に、その言葉は翼を持って羽ばたくように。

「だから、わたしは」

 風に乗ってどこまでも届くように。

「クリスタルキャラバンを目指す」

 彼女は自由の鳥となる。

 待った。

「ど、どうして!?」

 しかしルトナスは、彼女の最初の友達は、心の軋む音を聞いていた。

「キャラバンは危険なんだよ!? 死んじゃうかもしれない。そんなことしなくたって……なんで――」

「危険だからだよ」

 ルトナスの痛みを知ってか知らずか、真っ直ぐな瞳で彼女は夢を語る。

「危険で、一番責任ある仕事。今からわたしが皆に認められるようにするには、これを目指すくらいじゃないと」

 それに入隊できれば認められたってことだよね、とフィ・ナは笑う。どこまでも前向きな、ルトナスにとって残酷な笑顔。

「フィーは……何もわかってない」

 きっと自分は今醜い顔をしているとルトナスは思う。親友のやっとできた夢を否定する最低な奴だ。でも、それでも。

「死んじゃったらもう会えないんだよ!?」

 必死で、ただ必死で。唯一ルトナスを『英雄の息子』としてではなく、『ルトナス』として見てくれる友達を失いたくなくて。泣いて叫んでみっともなくても、絶対それだけは嫌だった。

 フィ・ナはもうすべてわかっているようにも見えた。ただ風に赤毛を揺らし、ルトナスの慟哭にも動じず、その場に立っていた。

「ねえ、ルト」

 その唇が動く。

「わたしと一緒に来て」

「えっ?」

 大きな風が吹いた。雲の隙間から日の光がキラキラと、再び彼女を後ろから照らし出す。

「不安だもん。死んじゃうのも、辛いのも痛いのも怖い。だけどルトとなら頑張れる」

「それって……」

「うん。一緒にクリスタルキャラバンになろう」

 その差し伸ばされた手を掴まなければ、すべてを失う気がした。

 もう、それしか道はなかった。そう考えると、これはとても理不尽だとルトナスは心の中で苦笑する。
 それでも決意さえしてしまえば早かった。きっと大丈夫。ぼくが、きみのこの手を離さない限りは。

「フィナは自由だね」

 ルトナスは少し抗議の意味を込めて、だけど素直な気持ちを伝えた。声はまだ震えていたが、心は不思議と穏やかだ。

「へへ。それはね、ルト」

 対してフィ・ナは見事に笑ってみせてこう言った。

「わたしにとって最高の褒め言葉だよ」

 

 つづく

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2021年10月15日