プロローグ – タイドプールの迷い子

 決して赦せぬモノがあったとして。
 嫌いで仕方ないモノがあったとして。
 それが自分自身であったのなら、どうすれば良いのだろう。
 答えのない問いに立ち止まり、明日を見失った彼女は……きっとどこへも帰れはしない。

 まんまるに満ちた月から、一筋の明かりがこぼれ落ちている。
 その柔らかな照明の中心に立つのは一人の少女。駆逐艦満潮――その魂を持ってこの世界に生まれ落ちたヒトならざる者、艦娘。
 彼女は挑むように頭上の月を睨みつける。自分が舞台でスポットライトを浴びる主役だと言うのなら、この世はなんと不細工な脚本だろうか。救える者も救えず、転々と所属を変えるたびに心を殺し、やっと地獄の果てに終局を見たと思えば、今度はヒトの姿で異形の化け物と戦う。
 ああ、それでもやるしかないのだ。守って殺して、助けて壊して……私の二度目の生に意味は要らない。これはかつての自分に向けた復讐なのだ。役立たずの鉄の塊が為せなかったことを為し、誰に看取られることなく再び海の底へと還る。
 彼女はそう、心に決めた。
 潮が満ちていく。タイドプールに取り残された魂は、帰る場所を知らぬまま。

 鋭い痛みが全身に走り、満潮は意識を覚醒させた。
 体を丸め、じっと痛みに耐える。そうしているうちに視界が少しずつクリアになってきた。満潮はどうやら自分が船の甲板の上に寝転がされているようだと気がついた。
 首を振ると、近くでは自身の艤装が黒い煙を上げている。主機から出火しているようで、航行可能かどうかもわからない。妖精たちは慌ただしく消火活動に勤しんでいて、とても満潮に状況を説明する余裕があるようには見えなかった。
 満潮は痛みに耐えながらなんとか体を起こしてみた。白い制服はすっかり煤けていて、ところどころ焼け落ちている。身体はどこもかしこも痛むせいで、どの箇所が深刻な状態なのか判断がつかない。
 自身に起きた惨劇を思い出そうにも、まるで頭に霧がかかったかのようにすべてが曖昧だ。それに、無理に思い出そうとすればするほど、ひどい頭痛にさらされる。彼女が考えることを諦めるのにさほど時間は要らなかった。
 満潮は再び横になると大きく息を吐いた。しかしこの何気ない行動の反動で大量の煙を吸い込んでしまったのはとんでもない誤算だった。咳き込めば咳き込むほど熱くて苦いそれが鼻や口から侵入してきて、息ができない。満潮は煙から逃れようとのたうちまわった。
 異変に気づいた乗組員の一人が主機を移動させてくれなかったら、彼女は本当に死んでいたかもしれない。船が船の上で窒息死など笑えない冗談だ。満潮は自分自身に呆れ果てた。
 呆けているとまた体に激痛が走った。強く海面に叩きつけられたのだろうか。依然混濁する記憶の糸をなんとか手繰り寄せようとするが、こう痛みが酷くてはそれもままならない。
 そんな満潮の様子を見かねてか、主機を遠ざけてくれた若い海兵隊員が心配そうに声をかけた。
「大丈夫かい? じっとしていた方が良い。すまないがこの船には艦娘を診られる軍医が乗艦していないんだ。ヒト用の鎮痛剤で良ければ手配できるが」
 満潮は彼の姿を視界の端に捉えつつ、痛みに歪んだ顔を見られないようにわずかに顔を背けた。既に一度助けられているとはいえ、知らぬ人間に過度に弱みを見せるのは彼女の性分ではない。
 首を横に振って提案を拒絶する。たったそれだけの動作でさえ目眩を伴った。
 海兵隊員は「そうか」と呟くと、しばし顎に手を当てて何事かを考えていた。そして満潮から離れると、どこかへ連絡を取り、妙に親しげに誰かと言葉を交わし始めた。
 満潮はその様子を今にも閉じてしまいそうな瞳で見つめていたが、次第に瞼の重さに耐えきれなくなり、視界と思考が同時に暗く塗り潰された。

 次に満潮が気がつくと、今度は海上に立っていた。波はほとんどなく、海は空の色と同様にどこまでも青く澄み渡っている。二つの境界線は曖昧で、四方八方どこにも遮蔽物は見当たらず、ただただ凪いだ海が広がるのみだ。
 彼女はどうして自分がここに居るのか疑問にさえ思わなかった。ただ当たり前のように行きたい場所を目指して水面を蹴った。どこまでも自由になったかのような心持ちだ。自分には行くべき場所、会いたい存在がいて、そこへ向かってただ一直線に海を駆けていく。満たされた思いだけが彼女を突き動かした。
 やがて両隣に、そして背後に気配を感じた。みんな私と同じように運命の糸に引き寄せられてこの場に集まったのだと、満潮は確信していた。四つの人影は見事な隊列を組み、海を自由自在に踊る。
 共にあるのが誰なのか、満潮には見えずともわかっていた。だからやがて舞踏会に終わりが来た時、歓びと興奮を必死に抑え、背後に向かって呼びかけた。
「あんたたちも、居るのね」
「ええ。この世界のどこかに」
 凛とした、だけど慈愛を含んだ優しい声が返ってきた。
 満潮は胸に手を当て、その言葉を愛おしげに包み込んだ。逸る気持ちを抑え、なおも問いかける。
「どこに行けば会える?」
「いつでもそばにいます! いつだって!」
 今度は底抜けに明るくて、思いやりがいっぱいに詰まった声。
「満潮ちゃんがー、きっといつか私たちを見つけてくれるって信じてるわあ」
 続いて、のんびり間延びした親しげな声が背後から投げかけられた。
 もう、振り向かずにはいられなかった。
「朝潮、大潮、それに荒潮……私!」
 しかし、そこにはどこまでも続く海が広がるのみであった。人影など、どこにもない。
 そして聞き慣れない声が耳元で囁くのだ。
 都合の良い夢は終わりよ、と。
「本当は会う勇気なんてこれっぽっちもないくせに。そんな資格なんてないって、自分が一番わかっているでしょう? ああ、でも妄想の中の彼女たちは優しいものね」
「うるさい」
 満潮は必死に耳を塞ぎ、唸った。
「わかった風な口を利かないで。誰にも私の気持ちがわかってたまるもんか」
「わかるわよ。だって」
 耳を塞いでいるはずなのに、さらに近くで声がする。満潮は恐怖で震え上がった。
 その声が何者のものか気づいてしまったのだ。聞きたくなくとも胸の内を抉る言葉の持ち主。それは。
「だって、私はあなただもの」
 澄み切った海と空が、音もなく崩壊した。

 つづく。

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2021年10月23日